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D・W・グリフィス監督 『國民の創生』 : 「映画の父」の深き呪い

映画評:D・W・グリフィス監督『國民の創生』(1915年・アメリカ映画)

悪名高き、歴史的傑作である

知っている人も少なくないとは思うが、いちおう紹介しておくと、本作は、かの悪名高き「人種差別主義暴力集団」である「KKK(クー・クラックス・クラン)」を「正義の味方」として描き、「KKK」が「黒人」を殺害するなどしたのは「黒人の方が悪かったからで、KKKは、白人の自衛のために生まれた集団なのだ」と、そのような「自己正当化」を、客観的立場ぶりながら描いているのだ。

(もちろん「KKK」である)

したがって、こんなものが、いくら「映画技術史的に重要な作品」であろうと、それ以前の問題として、「優れた作品だ」などと評されてよいわけがない。

事実、本作は、公開当時にあっても「黒人差別を正当化している作品」だとして、多くの上映拒否に遭っているのだが、それでも「大ヒット」したというのだから、さすがは「黒人による公民権運動」より遥かに昔の作品だというのが、よくわかる。

きっと、当時の多くの白人が「黒人は、白人と対等の、同じ人間だ」とされたことを、快く思っていなかったのであろう。
だからこそ、この映画に共感し、溜飲を下げて喝采の声をあげたと、そういうことなのであろう。さすがに、まだ「未開時代のアメリカ」らしい話である。

まあ、「大衆」の認識なんてものは、所詮いつの時代にもこの程度のものであり、決して、他人によって「啓蒙」し切れるものではないのだろう。
そのよい例が、日本人の少なからぬ者が、今でも、「南京大虐殺は無かった」と信じているか、信じてはいないが自己正当化したいとは思っているか、であることからもわかる。
要は、自分のしたことを棚に上げて「あいつらは、こんなことをした。あんなこともした」と論うことで、自分の行いを正当化しようとする、子供みたいなレベルの愚かさなのだ。

(「幻」論者にとっては、民間人1万人なら「虐殺は無かった」というロジックである)

ともあれ、前述のとおり、本作は『いくら「映画技術的に優れた作品」であろうと、それ以前の問題として「良い作品だ」などと評されてよいわけがない』作品なのだが、しかし現実には、そう評する「映画ファン」や「映画マニア」や「映画評論家」が少なくないのだ。驚くべきことに。

上の三者をまとめて「映画ファン」と呼ぶとして、では、どうして「映画ファン」たちは、この作品の「良いところ」を「強調」しようとするのであろうか?

それは「オタク」というものは、おしなべて、その「趣味」にアイデンティティを委ねているものだから、そこを否定されることは、自分を否定されることだと、そう感じないではいられないからである。
他に取り柄のない人間が、そこにしがみつくというのは、わかりやすい心理なのだ。

しかし、そうした「映画ファン」だって、他の作品においては、「差別はいけない」という感想くらいは語れるのだから、本作だって「映画としてはよく出来ているが、内容は論外であり、監督であるD・W・グリフィスは、明白な人種差別主義者だ」と断じても良さそうなところなのに、どうして、それができないのだろうか?

それは、この作品の制作年を見てもわかるとおり、D・W・グリフィスが、サイレント映画時代、つまり映画草創期の時代の巨匠であり、今の映画の礎となる「映画の文法」を確立した人であり、そうした功績から、「映画の父」とまで呼ばれている、特別な人だからだ。

つまり、「映画の父」は「人種差別主義者」でした、とは、なかなか心理的に認めがたいということであり、これは「映画ファン」が、「映画」というものに自己のアイデンティティを委ねきっている、何よりの証拠だとも言えるのだ。

だから、実際のところ、この作品自体は、オタクな「映画技法研究」のためか、さもなくば「差別史研究」のためか、「プロパガンダ(政治的宣伝)研究」のためにしか役に立たない、内容的に「酷い」の一語に尽きるものでしかない。

だから、グリフィスを、いまさら「人種差別主義者」だと責めたところ、何の意味もない。そんなことは、「映画ファン以外」には、わかりきった話だからだ。
それに、この作品の「良いところだけ」を言挙げしたがるような「エーガ真理教」の妄信者たちの「洗脳はずし」をすることが容易ではないというのも、「オウム真理教」事件を知っている程度に教養のある人間には、わかりきった話でもあろう。

(教祖の麻原彰晃。こんな男でも、信者たちは教祖を絶賛して、ついていったのである)

だが、本作『國民の創生』やグリフィス監督の「人種差別主義」を批判することは「必要なこと」ではあれ、世間一般には「わかりきった話」でしかない以上、今も重要な課題となるのは、自らのアイデンティティを守るために、「映画の父」という「教祖」を守ろうと、自分たちの間でしか通用しない、偏頗な小理屈を重ねて満足しようとしているような「映画ファン」の、その「心得違い」を厳しく批判断罪することであろう。

「この作品には、良いところもあった」などというのは、当たり前の話でしかなく、ヒトラーは、子供好きだった」と宣伝したナチスのやったプロパガンダと、なんら選ぶところのない、くだらない話なのだ。

そりゃあ、ヒトラーだって人間だから、実際に子供が好きだったかもしれないし、老人にも親切だったかも知れない。人当たりの良いところもあったかも知れない。それらが、かけらも無かったわけではなかろう。
だが、それをすべて認めるとしても、ヒトラーが積極的に引き起こした「ユダヤ人虐殺」の前には、そんな個人的な美質など、所詮は「話が別」でしかないのである。

同様に、D・W・グリフィスは「映画の父」かも知れないし、個人としては「良い人」だったかも知れない。
彼にスターにしてもらった人たちや育ててもらった映画人は、そりゃあ義理でもグリフィスを褒めるだろう。彼はこんなに素晴らしい人だった、と。

だが、それをすべて認めるとしても、本作『國民の創生』を見れば、彼が容認されるべき「人種差別主義者」などではなく、永遠に批判されてしかるべき「人種差別主義者」だというのは明白なことだ。
この作品を抹殺するのではなく、この作品がこの先も繰り返し「反面教師」として鑑賞され、併せて批判され続けねばならない作品であり、そして、こんな作品を「何とか擁護したい」とする人たちの「心根」も、徹底して批判され続けなければならないのである。
でなければ、そんな「自分都合の甘さ」にこそ、「差別意識」はつけ入ってくるからであり、そこから「虐殺」さえも、萌え出てくるからだ。

そんなわけで、この問題を論じるためには、やむなく、ある程度は、本作『國民の創生』の内容を紹介しなければならない。
見て貰えば、本作が「悪質なプロパガンダ映画」だというのは、よほどの「曇った目の持ち主」でないかぎり一目瞭然なのだが、「見ればわかる」では評論にならないので、面倒なことではあるが、批評対象として、ひととおりの紹介をすることにしよう。

 ○ ○ ○

まずは、「Wikipedia」から「あらすじ」を紹介する。

序章として、黒人のアメリカへの流入が簡単に描かれている。

第一部では、物語は北部ペンシルベニア州出身のストーンマン家のフィルとタッドが、級友のキャメロン兄弟に会いに南部のサウスカロライナ州ピドモントを訪ねることから始まる。フィル・ストーンマンはキャメロンの妹マーガレットと恋に落ち、マーガレットの兄ベン・キャメロンはフィルの妹エルジーと愛し合うようになる。そこへ南北戦争が始まり、フィルとタッドの兄弟は南部を去って北軍に加わる。激戦のためにベンの2人の弟とタッド・ストーンマンは戦死する。ベンの故郷の街ピドモントは北軍に攻撃され、ベンは負傷し、偶然にもフィル・ストーンマンの俘虜になるが、エルジーの献身的な看護によって一命を取り止める。
エルジー・ストーンマンとその母は、負傷したベンの解放をリンカーンに請願する。また、フィルとエルジーの父親オースティン・ストーンマンは南部に厳罰を科すよう主張するがリンカーンはこれを許さない。業を煮やしたオースティンは、白人と黒人の混血児サイラス・リンチの手を借りて、直接実力行使に出ようとする。その後、リンカーンの暗殺事件が起きて、その勢力を伸ばす。

第二部では、オースティンは娘エルジーを伴い南部のサウスカロライナ州へ移り、キャメロン家の隣に住み、南部への政治工作を始める。解放黒人軍人たちは街でパレードを行い、選挙権を与えられた黒人たちは白人との結婚の自由を法律化する。混血児リンチは政治権力を与えられて、彼のグループと共に南部で、白人たちにとっては目にあまる行為を始める。これに対して、ベン・キャメロンは白人の子供が白い布をかぶり、幽霊の格好をして黒人の子供を怖がらせているのを見てインスピレーションを得て、南部の白人たちとともに「見えざる帝国」すなわち、クー・クラックス・クラン(KKK)を結成し、その指導者の一人となる。その頃、白人の教育を受けて軍人としての地位も得た使用人の黒人のガスは、キャメロンの娘のフローラに求婚する。フローラはこれを拒否して森に逃げ込み、追いつめられて自ら崖に身を投げ死ぬ。これに激怒したキャメロンとKKK団は黒人のガスをリンチし、有罪判決を下してこれを殺す。

このためキャメロンの父がKKK団の幇助の罪に問われる。マーガレット・キャメロンと婚約したフィル・ストーンマンは、キャメロンの父を救い出し、キャメロン夫人やマーガレットや黒人の使用人と共に森の丸太小屋に隠れ、彼らの追っ手の一軍との戦闘準備を整える。一方エルジー・ストーンマンはリンチの元に直接赴き、フィルやキャメロン一家の助命を嘆願する。しかし、リンチは彼らの助命と引き替えにエルジーとの結婚を強要する。この「危機」に、ベンの率いるKKKたちはリンチの本部を襲って、リンチ一味を倒してエルジーを救い出し、丸太小屋で殺されかけているキャメロン一家とフィル・ストーンマンを救い出す。
こうして、KKKの勢力は、「南部の混乱」を収拾し、ベン・キャメロンとエルジー・ストーンマン、フィル・ストーンマンとマーガレット・キャメロンの2組の恋人は晴れて結ばれる。』

(Wikipedia「國民の創生」

登場人物がそこそこ多いので、これを読んだだけでは、たぶんよくわからないと思うから、少し解説を加えよう。

もともとは親しかった北部のストーンマン家南部のキャメロン家だったが、それが「南北戦争」で引き裂かれてしまう。
戦争は、北部の勝利に終わり、黒人奴隷の解放がなされる。黒人たちは浮かれ騒いで、「南部の白人」たちを「逆差別」し、議会でも多数を占めて、やりたい放題の暴虐を始める。

北部の政治家だったストーンマン(父)は、急進的な「黒人解放論者」で、南北戦争に勝った上は、南部を厳しく処分せよとリンカーン大統領に迫るが、リンカーンは国家の融和のために、ストーンマンの提案を退けて穏健策を採る。
ところが、そのリンカーンが暗殺され、力を持ったストーンマンは、黒人と白人のハーフであるリンチを南部に送り込んで、政治的な主導権を握ろうと画策。野心家のリンチは、それをうまくやりおおして副知事にもなり、黒人の権利の拡張を進めたので、黒人たちは、さらに図にのって、やりたい放題をし、白人はなすすべもなく不安に怯えながら、それを見守るしかなかった。
しかし、そんなリンチには、実はストーンマンの美人娘エルジーと結婚したいという野心があった。それをストーンマンには隠していたのある。

そして、手下であるリンチが有力者ななったこともあり、ストーンマンは南部に移って、政治活動を始め、娘のエルジーは、戦前から親しかったキャメロン家の人々と、隣人としてさらに親しく接するようになる。

ところが、黒人たちは、キャメロン家の「忠実な下僕」などを除いては、すっかり自由に酔って堕落し、暴虐のかぎりを尽くすばかりか、その薄汚れた欲望を「白人女性」にまで向けるようになった。黒人と白人の結婚が、法的にも認められたのである。

そんなことから、兄の注意にもかかわらず水汲みに出たキャメロン家の末娘フローラが、黒人男性ガスに求婚され、それから逃れるために崖から飛び降りて自殺し、「白人女性としての貞潔」を守るのだった。

(必死で逃げ回るフローラ。だが、ガスには彼女に暴行を加える様子はなかった)

それに激怒したキャメロン家の兄ベンが、その黒人を殺したため騒ぎは拡大して、危機はキャメロン家そのものにも迫る。
そこでエルジーは、リンチの力を借りようと出向くが、それに乗じて、とうとうリンチはエルジーの結婚を申し込み、それが拒絶されると既成事実としての結婚式を挙げようと、エルジーを監禁する。さらには、そこへやってきたストーンマンに対しても、もう従おうとはせず、その悪どい本性を表したのだ。

(エルジーに強引に言いよるリンチ。拒絶すると強制的な結婚式まで監禁しようとした)

そんな時、黒人たちの暴虐に堪えかねたキャメロン家のベンが、子供たちの遊ぶ姿から「白衣をまとう」という発想を得て、ついに「KKK」を立ち上げ、暴虐のかぎりを尽くしていた黒人たちを懲らしめ、ベンたち「KKK」の活躍により、エルジーも救出される。

(KKKのリーダーとなった、ベン・キャメロン)

そして、次の選挙は、「KKK」の監査の下、公正に行われたので白人が圧勝して、まともな世の中が戻ってきた。

こうして、ベンとエルジーは結ばれ、南北戦争で引き裂かれかけたアメリカも、白人同士の和解融和によって、ひとつの国として生まれたのである。めでたしめでたし。

一一というものである。

要は、黒人をわかりやすく「悪役」に仕立てることで、「KKK」を「正義の守り手」として描いた作品なのである。

しかも、リンチなどハーフも含む「悪どい黒人」役は、白人俳優が黒塗りで演じており、黒人のエキストラたちは、映画の内容をろくに知らされぬまま利用された蓋然性も、決して低くはない。そうした点でも、本作のやり口は悪どいのだ。

この作品で注目しなければならないのは、そもそも、なぜ「南北戦争」が起こったのかという肝心の部分を誤魔化し、描いていないという点である。

(本作中の「南北戦争」の様子)

周知のとおり、「南北戦争」というのは、「奴隷解放」を訴える「北部」と、黒人奴隷を使った綿花のプランテーションで稼いでいた「南部」との、利害対立がその主たる原因だ。

「南部」が「奴隷解放」に反対した理由は、わかりやすい。
要は、黒人に給料を払わなければならないとなれば、やっていけない。あるいは、これまでようにはやれないからである。

では、「北部」はなぜ「奴隷解放」を主張したのかと言えば、それは何も、今風の「人道主義」だけではなかったというのは、言うまでもない。
その理由はいくつもあるが、ひとつ挙げれば、南部とは違って工業化の進んでいた「北部」でも、やはり「安い労働者」が必要だったためだ。つまり、黒人が「南部」に囲い込まれているのでは困る。自由に働きに出て欲しかったのだ。
こうしたこと以外の、例えば「外交上の理由」などもあるけれど、それは本稿読者個々に、「南北戦争」のWikipediaなどでご確認いただくことにしょう。

そんなわけで、「南北戦争」の争点は、よく知られるとおり、「黒人奴隷の解放」の是非なのである。
ところが、本作は、そのあたりにはハッキリと触れず、ただ「南部」は、「主人と奴隷」という関係ではあれ「白人と黒人は、うまくやっていた」というような描写を見せるだけなのである。要は「黒人は、分を弁えていた」と。

だから、まるで「南北戦争」は、「北部」が「南部の自由」を剥奪するために起こした「内戦」であるかのように描かれている。

本作では、やたらに「戦争の悲劇」ということが強調され、まして白人同士が国を二分して争うことの悲劇が強調されて「決して戦争をしてはならない」というような、一見もっともらしい「平和主義」的な言葉が、最初と最後にナレーション的(字幕)に語られるのだが、その際に「黒人」の存在には、ほとんど触れられないのである。

つまり、後半で描かれる「思い上がった黒人の暴虐」というのを見れば、D・W・グリフィス監督が言いたかったのは、要は「何もかも、黒人が悪い」ということなのだ。

黒人のせいで、本来なら協力すべき白人同士が対立して、もう少しで国を破壊しようとしてしまった。
だから、これからは、白人同士が手を携えて、立派な祖国アメリカを作って行かなければならない」と、そう主張する作品なのである。
一一要は、アメリカには、黒人が参与する余地はなく、居場所があるとすれば、それは「人間としてではなく、分を弁えた存在(奴隷)としてだ」と、そのように主張するのが本作であり、まことに度しがたい「人種差別主義映画」だということにしかならないのだ。

(「黒人の未来」は考慮されていない)

 ○ ○ ○

しかしながら、すでに書いたとおり、いまさら、本作『國民の創生』を度しがたい「人種差別主義映画」だとか、D・W・グリフィス監督が「人種差別主義者」だとかいって責めても、そんな「わかりきった話」で、通り一遍に済ませたのでは、あまり意味のあることにはならない。

そうではなく、いま問題とされねばならないのは、こんな作品や映画作家を、今でも「擁護」しようとする、「映画ファン」であり「映画関係者」の存在、なのである。

もちろん、「人種差別」という「許しがたい悪徳」をきちんと批判した上で、「でもまあ、純粋に映画技法史的に見れば、その貢献は否定できない作品だ」程度のフォローをするというのなら許されもしよう。

しかし、「映画ファン」たちのしたがるのは「批判はすでにさんざされているのだから、我々は一般には語られていない、本作の良いところだけを語ろう」という、何やら鼻持ちならない「エリート意識」に由来する、偏頗な評価なのだ。
自分たち「映画エリート」は、「映画的な価値」だけ語っておればよく、世間並みの「道義的・倫理的な問題」まで語らねばならない義理などなく、そんなものは「映画の知識を持たない、一般の人たち」に任せておけば良いのだと、そう言わんばかりの態度なのである。
一一また、そんな「思い上がり」の自覚もないまま、それをやっている頭の悪い輩が、じつに多いのだ。

で、そうした「度しがたく頭の悪い映画ファンの代表」として、私はここで、映画評論家の、故・淀川長治を召喚したい。
淀川を代表として批判するのであれば、「映画ファン」の多くも文句はあるまいと、そう考えるからだ。

さて、私が見た「IVC」版のDVDには、作品の前に「淀川長治の解説映像」が収められており、本編の後には、それとはまた別の、淀川による「解説文」などが、付録している。

で、ここで取り上げるのは、主に、冒頭の「解説映像」であり、これについては「IVC」のサイトに全文テキスト化されて掲載しているのだが、誤解の無いよう、まずはそれを「全文」を引用して、紹介しておこう。

『はい、デビット・ワーク・グリフィス、D・W・グリフィスの『國民の創生』

『イントレランス』『散り行く花』『東への道』、グリフィスはとっても有名ですね。

けれども『國民の創生』は、もっと古いですから、ご存知ない方があるかもしれませんから、ちょっとこの大事なグリフィスの名作の話をしましょうね。



で、『國民の創生』ってなんでしょう?BIRTH OF NATION、『國民の創生』ですね。
これは、どんな話かと申しますと、南北戦争が始まる前に、南のお嬢ちゃんと北の坊ちゃんが仲良かったんですね、仲良かったけれども、南北戦争で二つに別れたんですね、この男女は生き別れになったんですね。



そういうような話なんですけれども、この映画で見事だったのは北軍と南軍の大戦争ですね。もの凄い戦争ですね。

これでもしも戦争が激しく、激しく、激しくなったら、アメリカは二つに別れなくちゃならなかったんですね。



さあ、そこでこういう言葉があるんですね、House Divided、二件に別れた家、というような言葉がアメリカにあるんですね。それは南北戦争のことですね。
南北戦争がもし燃え上がって、燃え上がって、リンカーンが暗殺されなかったなら、この二つの国が生まれるんですね。



これは見事に治まったことで有名な話なんですけど、そこで初めて『國民の創生』、アメリカいうものが出来たんですけれども、この映画で何が凄かったかいうと、アメリカのこの歴史ですね、いかに、いかに、北軍が南部の黒人達を憎んだか、いうことが見事に出てるんですね。



というのは、グリフィス自身が北軍の人なんです、北軍びいきなんですね。

それで黒人を随分、随分苛めたんですね。

だからこの映画に始めて、K.K.K.というのが出て来るんですね。

クー・クラックス・クランとか言うんですね。

これは顔をかくして、白い服を着て、馬に乗って、何か木の棒を持って、ずーっと廻り歩いて黒人見たら殺すんですね。

怖い、怖い連中、K.K.K.、今でもこのK.K.K.、アメリカにいるんですね。



黒人はみんな、みんな殴り殺すんですね。黒人の家を焼くんですね。なぜそんなことをするんだろう、いや、黒人はいやなやつだ、黒人は悪いやつだ、顔がブラックでいやだ、そういうような時代があったんですね。



この南軍北軍の物語、この映画の終わり、やっとアメリカが一つになった、アメリカが一つになった、タイトルが『國民の創生』ですね。

というような話なんですけれども、当時、本当にそのころ日本に北軍の唄が流れて来たんですね、“ダンダンダダンダダンダ...”と流れて来たんですね。



私が幼稚園の頃、日本に流れて来たんですね。で、日本の唄になったんですね。“アナタノアーイノ、ツユウケテ、キーノウハージメテ、ワラッテヨ”まあ、そんな唄になったんですね。



よく考えたら「あなたの愛の露受けて、昨日始めて笑ってよ」、いやらしい唄ですね、というような事で、その時分にもうすでに北軍の行進曲が日本に入ったいうこと、それもおもしろいですけど、『國民の創生』は、その時代の話ですよ。

【解説:淀川長治】』

これを読んで、「意味不明」だと感じたなら、それはその人が完全に正しい。

予備知識なしに、この「解説映像」を見た私は、私がこの映画のことも、また「南北戦争」のことも詳しくは知らないから、淀川長治のこの解説の意味が理解できないのかと思ったのだが、本編を見ることで、そうではなかったというのが、ハッキリとした。

私がこの「解説映像」を理解できなかったのは、ここで淀川長治が言っていることの方が、まったくの「デタラメ」だったからなのである。

一一それを、ここから説明していこう。

まず、この「解説映像」で問題となるのは、次の箇所である。

『この映画で何が凄かったかいうと、アメリカのこの歴史ですね、いかに、いかに、北軍が南部の黒人達を憎んだか、いうことが見事に出てるんですね。



というのは、グリフィス自身が北軍の人なんです、北軍びいきなんですね。

それで黒人を随分、随分苛めたんですね。

だからこの映画に始めて、K.K.K.というのが出て来るんですね。

クー・クラックス・クランとか言うんですね。

これは顔をかくして、白い服を着て、馬に乗って、何か木の棒を持って、ずーっと廻り歩いて黒人見たら殺すんですね。
怖い、怖い連中、K.K.K.、今でもこのK.K.K.、アメリカにいるんですね。



黒人はみんな、みんな殴り殺すんですね。黒人の家を焼くんですね。』

ここで、淀川長治が言っていることは、次のように整理することができる。

(1)「北軍」は、黒人を憎んでいた。
(2)グリフィスは、北軍の人で北軍びいき。
(3)「K.K.K.」は、人種差別主義者の、悪質な「暴力集団」である。

(1)だが、まずこの言葉が、完全に「意味不明」である。なんで「北軍」が「黒人を憎んでいた」なんて話になるのか?

「奴隷解放」を訴える「北部」の軍隊である「北軍」は、当然のことながら「奴隷解放」のために、命を賭して戦ったのだから、普通に考えて、黒人を憎むはずがない。憎んでいたら「解放」しようなどとは考えず、「奴隷のままでいろ」と、そう考えるはずだ。
個人の本音は別にして、「北軍」の建前は「黒人を、同じアメリカ人民として解放せよ」というものだったのだし、憎むのなら、それをしようとしない「非人道的な南部の白人」だったはずだ。だからこそ、白人同士の殺し合いもできたのである。

一一したがって、ここで、淀川長治が言っていることは、根拠不明かつ意味不明な言葉だとしか、評しようのないものなのだ。

(2)淀川の『グリフィスは、北軍の人で北軍びいき。』という解説は、完全な「嘘」である。
こうまで明言するからには、淀川は歴史的事実を知っていながら、あえてこう言ったに違いなく、無知による間違いだとは考えられない。よってこの説明は、自覚的な「嘘」なのだ。

事実を端的に言うならば、グリフィスは「南部の人」であり、「南軍びいきの人」だ。
つまり、淀川長治の「解説」とは、真逆なのだ。

例えば、「Wikipedia」には、次のとおりある。

『1875年1月22日、ケンタッキー州ラグレーンジに生まれる(クレスウッド生まれとする説もある)。父親は南北戦争における南軍の英雄ジェイコブ・ウォーク・グリフィス大佐。彼は大きな農場を経営しており、州議会議員も務めていたが、戦後に没落し、グリフィスが10歳の時に亡くなっている。そのため少年時代は困窮を極めていたが、両親から高い教育を受けていた。』

グリフィスの父親は『南軍の英雄』なのである。
しかも「南北戦争」で敗れたがために、家が没落して、苦労した人なのだ。
つまり、「北部の奴隷解放論者」には「恨み骨髄」であり、戦後「同じ人間」だというような顔をしている黒人たちに対しても、内心では腹に据えかねていたというのも、容易に推察のできるところであろう。一一だからこそ、本作『國民の創生』のような「反奴隷解放」の映画を、半世紀も立ってから、今更のように撮ったに他ならないのである。

ちなみに、悲惨なことには、私が見た「IVC」版のDVDには、本編後に、淀川長治の解説文とともに、グリフィス監督や主演女優リリアン・ギッシュなどの「経歴紹介文」も付録されており、グリフィスの「経歴紹介文」には、ハッキリと次のように書かれていたのだ。

『1875年米
ケンタッキー生まれ。
南北戦争のため没落した南部の家庭に育ち、18歳からいくつかの職業を渡り97年慈善公演の舞台に立ったのをきっかけに地方劇団に参加。
1907年エディソン社に入り、約400本もの作品を演出。』

(IVC版DVD付録のスタッフ紹介)

「Wikipedia」に記載のとおりである。

つまり、淀川長治なよる『グリフィスは、北軍の人で北軍びいき。』という解説の言葉は、事実無根の「デタラメ」であり、ほぼ間違いなく「確信犯的な(その場かぎりの)嘘」だったということである。

これはたぶん、この「解説映像」が撮影された当時なら、淀川は、このように事実を捻じ曲げて解説することで、「敬愛するグリフィスを擁護できる」と考えたのであろう。
その当時はまだ、インターネットなんて便利なものはなく、古い映画作家の個人情報などは、ごく限られた映画関係者しか持っていなかったからである。要は「バレないと思って、嘘をついた」ということだ。

(3)の『「K.K.K.」は、人種差別主義者の、悪質な「暴力集団」である。』という説明であるが、この言葉自体は間違いではない。
一一しかし、淀川長治は、本作『國民の創生』を見て、この作品の解説として、この言葉を語ったのだから、そのデタラメぶりは明らかであろう。

現実には、「KKK」は、淀川長治の言うとおり、その人種差別主義によって、黒人に非合法な暴力を振るった、恐るべき犯罪者集団でしかない。
にもかかわらず、本作『國民の創生』で描かれている「KKK」は「正義の味方」なのだから、当然、映画の解説者としては、「現実はこうだが、映画ではこう描かれている」とか「映画ではこう描かれているが、現実はこうである」と、そう解説しなければならない。

(本作中のKKK。フローラを死なせた罪により、ガスをKKKの裁判にかけて死刑に処した)

しかし、そう「まともに解説」してしまうと、では「なぜグリフィスは、そんな嘘を描いたのか?」という当然の疑問を持たれ、そのように問われることにもなるから、グリフィスを是が非にも擁護したい、つまり「人種差別主義者だったから」とは言いたくなかった淀川としては、グリフィスと「KKK」を切り離すべく、グリフィスを「北部の人・北軍びいき」ということにして、誤魔化そうとしてしまったのであろう。
なぜなら、「KKK」が「南部の人種差別主義」から生まれたものであることは、この映画にも、裏返したかたちで描かれていることだし、日本人だって、多少の教養がある者なら、「KKK」が「南部の恨み」を体現した「人種差別的な白人主義者集団」であることくらいは、常識として知っているからである。

そんなわけで、淀川長治はこの「解説映像」において、敬愛するグリフィス監督を「なんとか擁護したい」と、そう考えて無理をしたために、かなりの混乱を来している。
例えば、

『グリフィス自身が北軍の人なんです、北軍びいきなんですね。

それで黒人を随分、随分苛めたんですね。

だからこの映画に始めて、K.K.K.というのが出て来るんですね。

クー・クラックス・クランとか言うんですね。

これは顔をかくして、白い服を着て、馬に乗って、何か木の棒を持って、ずーっと廻り歩いて黒人見たら殺すんですね。
怖い、怖い連中、K.K.K.、今でもこのK.K.K.、アメリカにいるんですね。



黒人はみんな、みんな殴り殺すんですね。黒人の家を焼くんですね。』

この説明だと、まるで、「KKK」は「北部生まれ」のように聞こえるが、そんなトンデモは、よほど無知な人にしか通用しない。

そりゃあ確かに、後には「KKK」は「北部の白人」にも広がったけれど、それはあくまでも、のちの話であって、「KKKは北部から生まれた」などというトンデモは、淀川長治以外からは、聞いたこともない話なのである。

また、ついでに書いておくと、淀川長治が、本作を『この男女は生き別れになったんですね。/そういうような話なんです』と、まるで、「恋愛話」がメインの映画のように語っているのも誤魔化しだし、

『House Divided、二件に別れた家、というような言葉がアメリカにあるんですね。
それは南北戦争のことですね。
南北戦争がもし燃え上がって、燃え上がって、リンカーンが暗殺されなかったなら、この二つの国が生まれるんですね。』

と、まるで、リンカーンの暗殺があったから、アメリカが2つの国にならずに済んだかのような、誤解を招く言い方になったのも、本作におけるグリフィスの結論である(黒人は別にして、白人の国として)「ひとつの国にまとまって、良かった良かった」というのを、無理に追認しようとしたために起こった、混乱なのであろう。要は「目が泳いでいるような供述」だ、ということだ。

 ○ ○ ○

そんなわけで、「日本を代表する、映画評論家」であり、何よりもまず「映画愛」を語った「映画ファン」である淀川長治をして、このザマ、なのだ。

だから、淀川と同じように、とにかく「映画を擁護したい」と考えるような映画ファンというのは、淀川長治ほど大胆な嘘をつくことまではしない(もう、そんなことのできる時代ではない)のだけれど、そのかわりに、話を「映画技法」に限定することで、何とか、グリフィスの「人種差別主義」から、話題を逸らそうと試みがちなのだ。

そしてそれは、じつのところ、グリフィスを敬愛しているからではなく、自身がアイデンティティを委ねている「映画」というものの世間的な評価を、少しでも下げたくない、というケチな意識に発するものでしかない。
つまり、自分自身の世間的な価値を下げないために、グリフィスを擁護し、映画を擁護しているだけ、なのだ。
一一そんな「ケチな話」にすぎないのである。

 ○ ○ ○

そして、私が最近、批判的に語っているところの、蓮實重彦の表層批評」「表象文化論」といったものの「胡散くささ」も、根は同じなのだと、ここで断じても良いだろう。

要は、「腐った中身」を探られたくないがために「表面が大事、表面がすべて」といった「逆説」を弄して、「中身を問う能力のない人たち」をケムに巻いて誤魔化すのである。

もちろん、「表面に現れたもの」も大切ではある。
けれども、「哲学」や「文学」などが営々と積み重ねてきた「中身に対する問い」も、決して軽んじていいものではない。

なのに、それをわざわざ軽んじるのは、その者が「中身のない、中身を問われたくない人間」だからであり、そんな「中身のない人間のやること」だからなのだ。

まともな人間であれば、「映画の技術的な側面」についての知ったかぶりを語る前に、当たり前に、本作『國民の創生』で描かれた「悪意ある黒人描写」に腹を立て、これを撮ったグリフィスを批判しないではいられないだろう。

だが、表面だけをご大層に飾ることしか考えていないような輩は、「この黒人の描き方は、あまりにも恣意的で酷い」などと、本気で怒りを感じたりはしないのだ。

彼らも、時と場合によっては、そういうことを口にするかもしれないが、それは所詮、自らの保身のための「建前」であって、決して彼らの「本音」ではない。

結局のところ、「映画」にアイデンティティを委ねているような、中身に乏しい者は、自身を支えるための「映画」を守るためならば、黒人を、他人を踏みつけにすることだって、じつは平気なのだ。

だからこそ、本作『國民の創生』を見てもなお、まだ、作品を褒め、監督であるグリフィスを褒め、そのことで、自分自身を褒めることしかしないのである。



(2024年9月9日)

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