D・W・グリフィス監督 『國民の創生』 : 「映画の父」の深き呪い
映画評:D・W・グリフィス監督『國民の創生』(1915年・アメリカ映画)
悪名高き、歴史的傑作である。
知っている人も少なくないとは思うが、いちおう紹介しておくと、本作は、かの悪名高き「人種差別主義暴力集団」である「KKK(クー・クラックス・クラン)」を「正義の味方」として描き、「KKK」が「黒人」を殺害するなどしたのは「黒人の方が悪かったからで、KKKは、白人の自衛のために生まれた集団なのだ」と、そのような「自己正当化」を、客観的立場ぶりながら描いているのだ。
したがって、こんなものが、いくら「映画技術史的に重要な作品」であろうと、それ以前の問題として、「優れた作品だ」などと評されてよいわけがない。
事実、本作は、公開当時にあっても「黒人差別を正当化している作品」だとして、多くの上映拒否に遭っているのだが、それでも「大ヒット」したというのだから、さすがは「黒人による公民権運動」より遥かに昔の作品だというのが、よくわかる。
きっと、当時の多くの白人が「黒人は、白人と対等の、同じ人間だ」とされたことを、快く思っていなかったのであろう。
だからこそ、この映画に共感し、溜飲を下げて喝采の声をあげたと、そういうことなのであろう。さすがに、まだ「未開時代のアメリカ」らしい話である。
まあ、「大衆」の認識なんてものは、所詮いつの時代にもこの程度のものであり、決して、他人によって「啓蒙」し切れるものではないのだろう。
そのよい例が、日本人の少なからぬ者が、今でも、「南京大虐殺は無かった」と信じているか、信じてはいないが自己正当化したいとは思っているか、であることからもわかる。
要は、自分のしたことを棚に上げて「あいつらは、こんなことをした。あんなこともした」と論うことで、自分の行いを正当化しようとする、子供みたいなレベルの愚かさなのだ。
ともあれ、前述のとおり、本作は『いくら「映画技術的に優れた作品」であろうと、それ以前の問題として「良い作品だ」などと評されてよいわけがない』作品なのだが、しかし現実には、そう評する「映画ファン」や「映画マニア」や「映画評論家」が少なくないのだ。驚くべきことに。
上の三者をまとめて「映画ファン」と呼ぶとして、では、どうして「映画ファン」たちは、この作品の「良いところ」を「強調」しようとするのであろうか?
それは「オタク」というものは、おしなべて、その「趣味」にアイデンティティを委ねているものだから、そこを否定されることは、自分を否定されることだと、そう感じないではいられないからである。
他に取り柄のない人間が、そこにしがみつくというのは、わかりやすい心理なのだ。
しかし、そうした「映画ファン」だって、他の作品においては、「差別はいけない」という感想くらいは語れるのだから、本作だって「映画としてはよく出来ているが、内容は論外であり、監督であるD・W・グリフィスは、明白な人種差別主義者だ」と断じても良さそうなところなのに、どうして、それができないのだろうか?
それは、この作品の制作年を見てもわかるとおり、D・W・グリフィスが、サイレント映画時代、つまり映画草創期の時代の巨匠であり、今の映画の礎となる「映画の文法」を確立した人であり、そうした功績から、「映画の父」とまで呼ばれている、特別な人だからだ。
つまり、「映画の父」は「人種差別主義者」でした、とは、なかなか心理的に認めがたいということであり、これは「映画ファン」が、「映画」というものに自己のアイデンティティを委ねきっている、何よりの証拠だとも言えるのだ。
だから、実際のところ、この作品自体は、オタクな「映画技法研究」のためか、さもなくば「差別史研究」のためか、「プロパガンダ(政治的宣伝)研究」のためにしか役に立たない、内容的に「酷い」の一語に尽きるものでしかない。
だから、グリフィスを、いまさら「人種差別主義者」だと責めたところ、何の意味もない。そんなことは、「映画ファン以外」には、わかりきった話だからだ。
それに、この作品の「良いところだけ」を言挙げしたがるような「エーガ真理教」の妄信者たちの「洗脳はずし」をすることが容易ではないというのも、「オウム真理教」事件を知っている程度に教養のある人間には、わかりきった話でもあろう。
だが、本作『國民の創生』やグリフィス監督の「人種差別主義」を批判することは「必要なこと」ではあれ、世間一般には「わかりきった話」でしかない以上、今も重要な課題となるのは、自らのアイデンティティを守るために、「映画の父」という「教祖」を守ろうと、自分たちの間でしか通用しない、偏頗な小理屈を重ねて満足しようとしているような「映画ファン」の、その「心得違い」を厳しく批判断罪することであろう。
「この作品には、良いところもあった」などというのは、当たり前の話でしかなく、「ヒトラーは、子供好きだった」と宣伝したナチスのやったプロパガンダと、なんら選ぶところのない、くだらない話なのだ。
そりゃあ、ヒトラーだって人間だから、実際に子供が好きだったかもしれないし、老人にも親切だったかも知れない。人当たりの良いところもあったかも知れない。それらが、かけらも無かったわけではなかろう。
だが、それをすべて認めるとしても、ヒトラーが積極的に引き起こした「ユダヤ人虐殺」の前には、そんな個人的な美質など、所詮は「話が別」でしかないのである。
同様に、D・W・グリフィスは「映画の父」かも知れないし、個人としては「良い人」だったかも知れない。
彼にスターにしてもらった人たちや育ててもらった映画人は、そりゃあ義理でもグリフィスを褒めるだろう。彼はこんなに素晴らしい人だった、と。
だが、それをすべて認めるとしても、本作『國民の創生』を見れば、彼が容認されるべき「人種差別主義者」などではなく、永遠に批判されてしかるべき「人種差別主義者」だというのは明白なことだ。
この作品を抹殺するのではなく、この作品がこの先も繰り返し「反面教師」として鑑賞され、併せて批判され続けねばならない作品であり、そして、こんな作品を「何とか擁護したい」とする人たちの「心根」も、徹底して批判され続けなければならないのである。
でなければ、そんな「自分都合の甘さ」にこそ、「差別意識」はつけ入ってくるからであり、そこから「虐殺」さえも、萌え出てくるからだ。
そんなわけで、この問題を論じるためには、やむなく、ある程度は、本作『國民の創生』の内容を紹介しなければならない。
見て貰えば、本作が「悪質なプロパガンダ映画」だというのは、よほどの「曇った目の持ち主」でないかぎり一目瞭然なのだが、「見ればわかる」では評論にならないので、面倒なことではあるが、批評対象として、ひととおりの紹介をすることにしよう。
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まずは、「Wikipedia」から「あらすじ」を紹介する。
登場人物がそこそこ多いので、これを読んだだけでは、たぶんよくわからないと思うから、少し解説を加えよう。
もともとは親しかった北部のストーンマン家と南部のキャメロン家だったが、それが「南北戦争」で引き裂かれてしまう。
戦争は、北部の勝利に終わり、黒人奴隷の解放がなされる。黒人たちは浮かれ騒いで、「南部の白人」たちを「逆差別」し、議会でも多数を占めて、やりたい放題の暴虐を始める。
北部の政治家だったストーンマン(父)は、急進的な「黒人解放論者」で、南北戦争に勝った上は、南部を厳しく処分せよとリンカーン大統領に迫るが、リンカーンは国家の融和のために、ストーンマンの提案を退けて穏健策を採る。
ところが、そのリンカーンが暗殺され、力を持ったストーンマンは、黒人と白人のハーフであるリンチを南部に送り込んで、政治的な主導権を握ろうと画策。野心家のリンチは、それをうまくやりおおして副知事にもなり、黒人の権利の拡張を進めたので、黒人たちは、さらに図にのって、やりたい放題をし、白人はなすすべもなく不安に怯えながら、それを見守るしかなかった。
しかし、そんなリンチには、実はストーンマンの美人娘エルジーと結婚したいという野心があった。それをストーンマンには隠していたのある。
そして、手下であるリンチが有力者ななったこともあり、ストーンマンは南部に移って、政治活動を始め、娘のエルジーは、戦前から親しかったキャメロン家の人々と、隣人としてさらに親しく接するようになる。
ところが、黒人たちは、キャメロン家の「忠実な下僕」などを除いては、すっかり自由に酔って堕落し、暴虐のかぎりを尽くすばかりか、その薄汚れた欲望を「白人女性」にまで向けるようになった。黒人と白人の結婚が、法的にも認められたのである。
そんなことから、兄の注意にもかかわらず水汲みに出たキャメロン家の末娘フローラが、黒人男性ガスに求婚され、それから逃れるために崖から飛び降りて自殺し、「白人女性としての貞潔」を守るのだった。
それに激怒したキャメロン家の兄ベンが、その黒人を殺したため騒ぎは拡大して、危機はキャメロン家そのものにも迫る。
そこでエルジーは、リンチの力を借りようと出向くが、それに乗じて、とうとうリンチはエルジーの結婚を申し込み、それが拒絶されると既成事実としての結婚式を挙げようと、エルジーを監禁する。さらには、そこへやってきたストーンマンに対しても、もう従おうとはせず、その悪どい本性を表したのだ。
そんな時、黒人たちの暴虐に堪えかねたキャメロン家のベンが、子供たちの遊ぶ姿から「白衣をまとう」という発想を得て、ついに「KKK」を立ち上げ、暴虐のかぎりを尽くしていた黒人たちを懲らしめ、ベンたち「KKK」の活躍により、エルジーも救出される。
そして、次の選挙は、「KKK」の監査の下、公正に行われたので白人が圧勝して、まともな世の中が戻ってきた。
こうして、ベンとエルジーは結ばれ、南北戦争で引き裂かれかけたアメリカも、白人同士の和解融和によって、ひとつの国として生まれたのである。めでたしめでたし。
一一というものである。
要は、黒人をわかりやすく「悪役」に仕立てることで、「KKK」を「正義の守り手」として描いた作品なのである。
しかも、リンチなどハーフも含む「悪どい黒人」役は、白人俳優が黒塗りで演じており、黒人のエキストラたちは、映画の内容をろくに知らされぬまま利用された蓋然性も、決して低くはない。そうした点でも、本作のやり口は悪どいのだ。
この作品で注目しなければならないのは、そもそも、なぜ「南北戦争」が起こったのかという肝心の部分を誤魔化し、描いていないという点である。
周知のとおり、「南北戦争」というのは、「奴隷解放」を訴える「北部」と、黒人奴隷を使った綿花のプランテーションで稼いでいた「南部」との、利害対立がその主たる原因だ。
「南部」が「奴隷解放」に反対した理由は、わかりやすい。
要は、黒人に給料を払わなければならないとなれば、やっていけない。あるいは、これまでようにはやれないからである。
では、「北部」はなぜ「奴隷解放」を主張したのかと言えば、それは何も、今風の「人道主義」だけではなかったというのは、言うまでもない。
その理由はいくつもあるが、ひとつ挙げれば、南部とは違って工業化の進んでいた「北部」でも、やはり「安い労働者」が必要だったためだ。つまり、黒人が「南部」に囲い込まれているのでは困る。自由に働きに出て欲しかったのだ。
こうしたこと以外の、例えば「外交上の理由」などもあるけれど、それは本稿読者個々に、「南北戦争」のWikipediaなどでご確認いただくことにしょう。
そんなわけで、「南北戦争」の争点は、よく知られるとおり、「黒人奴隷の解放」の是非なのである。
ところが、本作は、そのあたりにはハッキリと触れず、ただ「南部」は、「主人と奴隷」という関係ではあれ「白人と黒人は、うまくやっていた」というような描写を見せるだけなのである。要は「黒人は、分を弁えていた」と。
だから、まるで「南北戦争」は、「北部」が「南部の自由」を剥奪するために起こした「内戦」であるかのように描かれている。
本作では、やたらに「戦争の悲劇」ということが強調され、まして白人同士が国を二分して争うことの悲劇が強調されて「決して戦争をしてはならない」というような、一見もっともらしい「平和主義」的な言葉が、最初と最後にナレーション的(字幕)に語られるのだが、その際に「黒人」の存在には、ほとんど触れられないのである。
つまり、後半で描かれる「思い上がった黒人の暴虐」というのを見れば、D・W・グリフィス監督が言いたかったのは、要は「何もかも、黒人が悪い」ということなのだ。
「黒人のせいで、本来なら協力すべき白人同士が対立して、もう少しで国を破壊しようとしてしまった。
だから、これからは、白人同士が手を携えて、立派な祖国アメリカを作って行かなければならない」と、そう主張する作品なのである。
一一要は、アメリカには、黒人が参与する余地はなく、居場所があるとすれば、それは「人間としてではなく、分を弁えた存在(奴隷)としてだ」と、そのように主張するのが本作であり、まことに度しがたい「人種差別主義映画」だということにしかならないのだ。
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しかしながら、すでに書いたとおり、いまさら、本作『國民の創生』を度しがたい「人種差別主義映画」だとか、D・W・グリフィス監督が「人種差別主義者」だとかいって責めても、そんな「わかりきった話」で、通り一遍に済ませたのでは、あまり意味のあることにはならない。
そうではなく、いま問題とされねばならないのは、こんな作品や映画作家を、今でも「擁護」しようとする、「映画ファン」であり「映画関係者」の存在、なのである。
もちろん、「人種差別」という「許しがたい悪徳」をきちんと批判した上で、「でもまあ、純粋に映画技法史的に見れば、その貢献は否定できない作品だ」程度のフォローをするというのなら許されもしよう。
しかし、「映画ファン」たちのしたがるのは「批判はすでにさんざされているのだから、我々は一般には語られていない、本作の良いところだけを語ろう」という、何やら鼻持ちならない「エリート意識」に由来する、偏頗な評価なのだ。
自分たち「映画エリート」は、「映画的な価値」だけ語っておればよく、世間並みの「道義的・倫理的な問題」まで語らねばならない義理などなく、そんなものは「映画の知識を持たない、一般の人たち」に任せておけば良いのだと、そう言わんばかりの態度なのである。
一一また、そんな「思い上がり」の自覚もないまま、それをやっている頭の悪い輩が、じつに多いのだ。
で、そうした「度しがたく頭の悪い映画ファンの代表」として、私はここで、映画評論家の、故・淀川長治を召喚したい。
淀川を代表として批判するのであれば、「映画ファン」の多くも文句はあるまいと、そう考えるからだ。
さて、私が見た「IVC」版のDVDには、作品の前に「淀川長治の解説映像」が収められており、本編の後には、それとはまた別の、淀川による「解説文」などが、付録している。
で、ここで取り上げるのは、主に、冒頭の「解説映像」であり、これについては「IVC」のサイトに全文テキスト化されて掲載しているのだが、誤解の無いよう、まずはそれを「全文」を引用して、紹介しておこう。
これを読んで、「意味不明」だと感じたなら、それはその人が完全に正しい。
予備知識なしに、この「解説映像」を見た私は、私がこの映画のことも、また「南北戦争」のことも詳しくは知らないから、淀川長治のこの解説の意味が理解できないのかと思ったのだが、本編を見ることで、そうではなかったというのが、ハッキリとした。
私がこの「解説映像」を理解できなかったのは、ここで淀川長治が言っていることの方が、まったくの「デタラメ」だったからなのである。
一一それを、ここから説明していこう。
まず、この「解説映像」で問題となるのは、次の箇所である。
ここで、淀川長治が言っていることは、次のように整理することができる。
(1)「北軍」は、黒人を憎んでいた。
(2)グリフィスは、北軍の人で北軍びいき。
(3)「K.K.K.」は、人種差別主義者の、悪質な「暴力集団」である。
(1)だが、まずこの言葉が、完全に「意味不明」である。なんで「北軍」が「黒人を憎んでいた」なんて話になるのか?
「奴隷解放」を訴える「北部」の軍隊である「北軍」は、当然のことながら「奴隷解放」のために、命を賭して戦ったのだから、普通に考えて、黒人を憎むはずがない。憎んでいたら「解放」しようなどとは考えず、「奴隷のままでいろ」と、そう考えるはずだ。
個人の本音は別にして、「北軍」の建前は「黒人を、同じアメリカ人民として解放せよ」というものだったのだし、憎むのなら、それをしようとしない「非人道的な南部の白人」だったはずだ。だからこそ、白人同士の殺し合いもできたのである。
一一したがって、ここで、淀川長治が言っていることは、根拠不明かつ意味不明な言葉だとしか、評しようのないものなのだ。
(2)淀川の『グリフィスは、北軍の人で北軍びいき。』という解説は、完全な「嘘」である。
こうまで明言するからには、淀川は歴史的事実を知っていながら、あえてこう言ったに違いなく、無知による間違いだとは考えられない。よってこの説明は、自覚的な「嘘」なのだ。
事実を端的に言うならば、グリフィスは「南部の人」であり、「南軍びいきの人」だ。
つまり、淀川長治の「解説」とは、真逆なのだ。
例えば、「Wikipedia」には、次のとおりある。
グリフィスの父親は『南軍の英雄』なのである。
しかも「南北戦争」で敗れたがために、家が没落して、苦労した人なのだ。
つまり、「北部の奴隷解放論者」には「恨み骨髄」であり、戦後「同じ人間」だというような顔をしている黒人たちに対しても、内心では腹に据えかねていたというのも、容易に推察のできるところであろう。一一だからこそ、本作『國民の創生』のような「反奴隷解放」の映画を、半世紀も立ってから、今更のように撮ったに他ならないのである。
ちなみに、悲惨なことには、私が見た「IVC」版のDVDには、本編後に、淀川長治の解説文とともに、グリフィス監督や主演女優リリアン・ギッシュなどの「経歴紹介文」も付録されており、グリフィスの「経歴紹介文」には、ハッキリと次のように書かれていたのだ。
「Wikipedia」に記載のとおりである。
つまり、淀川長治なよる『グリフィスは、北軍の人で北軍びいき。』という解説の言葉は、事実無根の「デタラメ」であり、ほぼ間違いなく「確信犯的な(その場かぎりの)嘘」だったということである。
これはたぶん、この「解説映像」が撮影された当時なら、淀川は、このように事実を捻じ曲げて解説することで、「敬愛するグリフィスを擁護できる」と考えたのであろう。
その当時はまだ、インターネットなんて便利なものはなく、古い映画作家の個人情報などは、ごく限られた映画関係者しか持っていなかったからである。要は「バレないと思って、嘘をついた」ということだ。
(3)の『「K.K.K.」は、人種差別主義者の、悪質な「暴力集団」である。』という説明であるが、この言葉自体は間違いではない。
一一しかし、淀川長治は、本作『國民の創生』を見て、この作品の解説として、この言葉を語ったのだから、そのデタラメぶりは明らかであろう。
現実には、「KKK」は、淀川長治の言うとおり、その人種差別主義によって、黒人に非合法な暴力を振るった、恐るべき犯罪者集団でしかない。
にもかかわらず、本作『國民の創生』で描かれている「KKK」は「正義の味方」なのだから、当然、映画の解説者としては、「現実はこうだが、映画ではこう描かれている」とか「映画ではこう描かれているが、現実はこうである」と、そう解説しなければならない。
しかし、そう「まともに解説」してしまうと、では「なぜグリフィスは、そんな嘘を描いたのか?」という当然の疑問を持たれ、そのように問われることにもなるから、グリフィスを是が非にも擁護したい、つまり「人種差別主義者だったから」とは言いたくなかった淀川としては、グリフィスと「KKK」を切り離すべく、グリフィスを「北部の人・北軍びいき」ということにして、誤魔化そうとしてしまったのであろう。
なぜなら、「KKK」が「南部の人種差別主義」から生まれたものであることは、この映画にも、裏返したかたちで描かれていることだし、日本人だって、多少の教養がある者なら、「KKK」が「南部の恨み」を体現した「人種差別的な白人主義者集団」であることくらいは、常識として知っているからである。
そんなわけで、淀川長治はこの「解説映像」において、敬愛するグリフィス監督を「なんとか擁護したい」と、そう考えて無理をしたために、かなりの混乱を来している。
例えば、
この説明だと、まるで、「KKK」は「北部生まれ」のように聞こえるが、そんなトンデモは、よほど無知な人にしか通用しない。
そりゃあ確かに、後には「KKK」は「北部の白人」にも広がったけれど、それはあくまでも、のちの話であって、「KKKは北部から生まれた」などというトンデモは、淀川長治以外からは、聞いたこともない話なのである。
また、ついでに書いておくと、淀川長治が、本作を『この男女は生き別れになったんですね。/そういうような話なんです』と、まるで、「恋愛話」がメインの映画のように語っているのも誤魔化しだし、
と、まるで、リンカーンの暗殺があったから、アメリカが2つの国にならずに済んだかのような、誤解を招く言い方になったのも、本作におけるグリフィスの結論である(黒人は別にして、白人の国として)「ひとつの国にまとまって、良かった良かった」というのを、無理に追認しようとしたために起こった、混乱なのであろう。要は「目が泳いでいるような供述」だ、ということだ。
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そんなわけで、「日本を代表する、映画評論家」であり、何よりもまず「映画愛」を語った「映画ファン」である淀川長治をして、このザマ、なのだ。
だから、淀川と同じように、とにかく「映画を擁護したい」と考えるような映画ファンというのは、淀川長治ほど大胆な嘘をつくことまではしない(もう、そんなことのできる時代ではない)のだけれど、そのかわりに、話を「映画技法」に限定することで、何とか、グリフィスの「人種差別主義」から、話題を逸らそうと試みがちなのだ。
そしてそれは、じつのところ、グリフィスを敬愛しているからではなく、自身がアイデンティティを委ねている「映画」というものの世間的な評価を、少しでも下げたくない、というケチな意識に発するものでしかない。
つまり、自分自身の世間的な価値を下げないために、グリフィスを擁護し、映画を擁護しているだけ、なのだ。
一一そんな「ケチな話」にすぎないのである。
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そして、私が最近、批判的に語っているところの、「蓮實重彦の表層批評」や「表象文化論」といったものの「胡散くささ」も、根は同じなのだと、ここで断じても良いだろう。
要は、「腐った中身」を探られたくないがために「表面が大事、表面がすべて」といった「逆説」を弄して、「中身を問う能力のない人たち」をケムに巻いて誤魔化すのである。
もちろん、「表面に現れたもの」も大切ではある。
けれども、「哲学」や「文学」などが営々と積み重ねてきた「中身に対する問い」も、決して軽んじていいものではない。
なのに、それをわざわざ軽んじるのは、その者が「中身のない、中身を問われたくない人間」だからであり、そんな「中身のない人間のやること」だからなのだ。
まともな人間であれば、「映画の技術的な側面」についての知ったかぶりを語る前に、当たり前に、本作『國民の創生』で描かれた「悪意ある黒人描写」に腹を立て、これを撮ったグリフィスを批判しないではいられないだろう。
だが、表面だけをご大層に飾ることしか考えていないような輩は、「この黒人の描き方は、あまりにも恣意的で酷い」などと、本気で怒りを感じたりはしないのだ。
彼らも、時と場合によっては、そういうことを口にするかもしれないが、それは所詮、自らの保身のための「建前」であって、決して彼らの「本音」ではない。
結局のところ、「映画」にアイデンティティを委ねているような、中身に乏しい者は、自身を支えるための「映画」を守るためならば、黒人を、他人を踏みつけにすることだって、じつは平気なのだ。
だからこそ、本作『國民の創生』を見てもなお、まだ、作品を褒め、監督であるグリフィスを褒め、そのことで、自分自身を褒めることしかしないのである。
(2024年9月9日)
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