高山羽根子 『うどん キツネつきの』 : 大宇宙に開かれた〈小宇宙〉
書評:高山羽根子『うどん キツネつきの』(ハヤカワ文庫)
面白いのだが、論じにくい作家だ。
先頃『首里の馬』で「第163回 芥川賞」を受賞した高山羽根子を、私は本作品集で初めて読むのだが、正直なところ、もう何冊か読まないと、この作家の核心的な部分をはっきりとは掴めそうにない。だが、あえて、この作品集から感じたところだけで論じてみよう。
文庫解説者の大野万紀が書いているとおり、本作品集に収められたもののうち、表題作を含む最初の3作(「うどん キツネつきの」「シキ零レイ零 ミドリ荘」「母のいる島」)は、とても楽しい作品だ。何より登場人物たちがコミカルかつ、非常に生き生きと描かれている。この作家は、こうした「普通の人々」を描くのが好きなのだろう。
しかし、それだけで十分、小説としてまとまりそうなところへ「異質なもの」が顔を覗かせることで、その作品世界は独特の奥行きと広がりを持つことになる。どうやら作者は、人物描写による「小宇宙」の構築に満足しない人のようだ。
さて、ここで勘違いしてはならないのは、この作者の場合、その作品世界は「小宇宙プラスα」ではない、という点だろう。
たしかに前述の3作では、「異質なもの」は「顔を覗かせる」に止まっているが、後の2作(「おやすみラジオ」「巨きなものの還る場所」)では、「異質なもの」が「顔を覗かせる」に止まらず、「もう一つの異質な世界」として「主たる舞台となる世界」に貫入してきて、作品世界は「小宇宙」ではなく「多重世界という大宇宙」の様相を明らかにしはじめるからである。
つまり、最初の3作においては、部分的にしかその姿を見せなかった「異質なもの」の背後にも「もう一つの(異質な)宇宙」が控えていたのであり、その描かれなかった背景世界の存在感こそが、高山の作品を「SF」にしていると言えるのだ。高山は、単に「小宇宙」を描く作家ではなく、「大宇宙に内包された小宇宙」を描く作家だったのである。
そして、それを端的に示す作風が、異質な「神話世界」の交錯するスケールの大きな作品「巨きなものの還る場所」なのではないだろうか。
高山羽根子は、従来の小説的世界観からすれば「完結している世界(小宇宙)」のいくつかが、奇妙な形に接合され、一体化し同居している、そんな独特の広がりを持つ世界観の構築に成功している。
言い変えればそれは、小説的に小さく「閉じない世界」「完結しない世界」であり、そこにあるのは「物語世界であることの自覚と、その自由と快楽」なのではないだろうか。
高山が構築している(保有している)のは、あらゆる種類の小部屋を有する迷宮的大御殿なのだが、実際に描かれるのは、その中の一つあるいはいくつかの「小部屋」である。
しかしながら、それらの小部屋のドアは、どこかで開きっぱなしになっていて、その向こうに覗く景色は、小部屋の世界と隔絶した「別の宇宙」なのだ。読者は、そこに描かれている「小部屋の世界(宇宙)」が、「大きな世界(宇宙)の中の、特異な小部屋の一つ」でしかないことを、ドアの向こうに垣間見える景色によって教えられる。
「この世界は閉じていない。この世界は完結していない。この先には思いもよらぬ世界が無数に連なりながら、広がっているのだ」ということを教えられるのである。
世界観の多様性とその接続というリアリティ。
異質な世界がつながっていながら、異質なものどおしの「異化効果」や「化学反応」といった対立的止揚としてではなく、むしろ「自然な接続世界」に仕立ててしまう非凡な筆力。
高山羽根子の魅力とは、そんな「秘められた壮大さの暗示」にあるのではないだろうか。
そしてこれは「希望を語るSF」だと、私にはそんなふうに感じられたのだが、どうだろうか。
初出:2020年8月24日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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