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東畑開人『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』 : そして名探偵は告げる「犯人は…」

書評:東畑開人『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』(医学書院)

本書のユニークさとその魅力は、なにより「ケア」にかんする専門書的な内容を、読者に親しみやすい、ユーモア溢れる自伝的小説風の作品として仕上げている点にあろう。
著者のセルフ「ボケとツッコミ」はとても楽しく、ユニークで心温かな登場人物たちとの交流の中で、語り手の主人公は成長していく。

主人公は当初、患者の暗部と1対1で向き合い、その問題点を剔抉することで患者の心の病いを癒す、「名探偵」としてのセラピストを目指していた。
しかし、主人公が勤めることになったケアの現場は、患者やその心の病いとの「対決」ではなく、患者とともにいること、患者がその癒しきれない病いとせめて共存できるように、安心できる場所を保障すること、つまり患者が「生きることを支える(ケアする)」ことこそが急務とされる現場だった。そして、そうしたケアの方法こそが「共に居る」ことだったのだ。
患者たちを「非効率なもの」として置去りにしていく「外の世間」とはちがい、患者たちが安心して居られる「居場所」を提供すること。それが目指された場所(アジール)だったのである。

そんな「時間が止まったような場所(ケアの現場)」で、主人公はケアの難しさと重要性を学び、頭でっかちだった自身を見直して、じょじょに成長していく。
しかし、物語後半では、そんな成長へと主人公を導いてくれたかけがえのない先輩たちが、次々と職場を去っていってしまう。時間の流れが止まった、ある種の「楽園」のようにも思えた場所に、時間の「暗い影」が差し始める。

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作中でも言及されているとおり、本書は、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』を踏まえたかたちで物語が展開していく。主人公が、三月ウサギに導かれて落ち込んだ穴の先に待っていたのは、調子っぱずれの帽子屋(マッドハッター)をはじめとした、おかしな面々が待ち受ける「不思議の国」だったのである。
そこは、主人公にとっては、それまでの「常識」が通用しない、ある種の「反世界」だったのだが、その反面、前述のとおりそこは、ある意味では、とても人間的な「楽園」でもあった。

しかし、その閉じた楽園(クローズド・サークル)から、かけがえのない仲間たちが、一人また一人と去っていく。それはまるで「嵐の孤島」「吹雪の山荘」(外では風雪が吹き荒れていて出られないが、内は生活が保障されている場所)において、重要な登場人物が、一人また一人と消されていく「連続殺人事件もの」にも似た、不吉な様相を態し始める。物語の後半において、「不思議の国の楽園」は、着実に崩壊へと向かっていく。

さて、この「アジール(避難場所)」としての「楽園」を崩壊させた犯人とは、何者なのか。

『不思議の国のアリス』を踏まえた「異色の本格ミステリ」といえば、ミステリファンならば必ずや、かの名作、中井英夫の『虚無への供物』を想起するだろう。
この名作においても、最後に迫り出してくる「真犯人」の姿は、あまりにも黒々として禍々しく、かつ意外なものであった。

そんな事件(マーダー・ケース)の悲劇的な結末について、探偵役の奈々村久生と光田亜利夫は、次のような会話を交わす。

『 それから亜利夫に向って、励ますように、
「ねえアリョーシャ。あなた、本当にしっかりしてこの事件を書きあげてね。自分で書きたいところだけど、あたしと同名の天才(引用者註・久生十蘭のこと)がいるうちは、恥ずかしくって一行も書けない気がするの。アリョーシャは顔に似合わず文才だけはあるみたいだし、合作にしたって実際に書くのはあなたでなくちゃ」
「そりゃ、書けるものなら書きたいけどね」
 亜利夫は頼りなく答えた。
「探偵小説として書くのか、それとも……」
「むろん、探偵小説よ。それも、本格推理長編の型どおりの手順を踏んでいって、最後だけがちょっぴり違う一一作中人物の、誰でもいいけど、一人がいきなり、くるりとふり返って、ページの外の〝読者〟に向って〝あなたが犯人だ〟って指さす、そんな小説にしたいの。ええ、さっきもいったように、真犯人はあたしたち御見物衆には違いないけど、それは〝読者〟も同じでしょう。この一九五四年から五五年にかけて、責任ある大人だった日本人なら全部犯人の資格がある筈だから」』

本書『居るのはつらいよ』における「真犯人」もまた、『御見物衆』である私たち『読者』でもあろう。
現在の日本におけるケアを取り巻く状況は、『虚無への供物』における「海の殺人現場(初版では、海の屠殺現場)」の再演を予告する「ある殺人事件」として、すでにその禍々しい姿を現している。そう、あの「相模原障害者施設殺傷事件」である。

本書『居るのはつらいよ』で示された「真犯人」が、あの凄惨な事件を引き起こした「実行犯」に、あの動機を吹き込んだ。
「障害者は、社会のお荷物だ。やつらに生きる価値はない、だから、殺してしまえ」と。
私たちは、そんな「声」が支配する社会に生きている。

本書はたしかに面白い。ものすごく面白い。
けれども、それを、小説の中の「殺人事件」のように消費する時、私たちもまた、まちがいなく「御見物衆」であり「犯人の一人=犯人の有資格者」なのだ。

多く屍体が死んだマグロのように浮かぶ凄惨な「海の殺人現場」が、私たちの時代においては、より大規模に準備されつつあるのではないだろうか。今はまだ、ハッキリとしたかたちはとっていないのかもしれないが、すでにその凶鳥の影は、なんども私たちの目の前をかすめているはずだ。
しかし、この時代を生きる『責任ある大人だった日本人なら』ば、その全員に、その凶行を食い止める責があるだろう。また、そうしなければ、私たちは、間接的にではあれ、その手を血に染めることになろう。

「マッド・ティー・パーティー」の果てに、私たちは、この「悪夢」から目醒めることができるのであろうか。

初出:2020年2月6日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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