上間陽子『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』: 地下室の手記
書評:上間陽子『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』(太田出版)
不遇な家庭環境に育ったが故の未熟さから若年出産し、それでも、その小さな命を守り育てるために、シングルマザーとなっても頑張っている、傷つけられた少女たちの姿を、直近で見守ってきた著者による報告が、本書である。
読まずとも、おおよそこんなことだろうと知ってはいてが、あらためて突きつけられると、暗澹たる気分になってしまう。
例えば、ユニセフのテレビコマーシャルを見た時と同じだ。
世界には、食べるものもろくにない子供たちが大勢いて、飢えに苦しみ、死んでいる。言うまでもないことだが、彼ら彼女ら自身には何の責任もない。彼らは、純粋な被害者であり、多くの善意の人はそれを何とかしなければと思っているのに、その目の前で、多くの子供たちの命が、日々失われている。
私たちは、こんなことくらい、頭でならわかっているし、大筋では知っているのだが、しかし、その事実を、具体的なものとして、あらためて突きつけられると、自身の無力さに、暗澹たる気分にならざるを得ない。
いや、「私たち」ではなく、「私」だ。何もできない、何もしないに等しい「私」だ。
何かをしなければならないというのはわかっている。しかし、何をすればいいのだろう。ひとまず、ユニセフにでも募金すればいいのだろうか? しかし、募金先なら、他にいくらでもあるはずだし、なぜユニセフということになるのだろうか? 多分、「ひとまず」募金をすればというのは、そうすることで、私自身の「やましさ」や「苦しさ」が、少しは軽減できるだろうからだ。
募金したところで、その「私のカネ」が、誰に対し、どのように使われるのかを、私は具体的に知ることはできない。そうした募金で救われている子供たちが大勢いるとしても、「私のカネ」はそうした「予算」の中に溶け込んで、「これ」が「私のカネ」による救済だ、このようにして「この子」の命が救われたのだといった、実感は持てない。ぼんやりと、ただ「役に立っているはずだ」という感じしかない。
もしも、目の前に「あなたのお金で助かりました」という子供がいれば、私はきっと「お金」を出したことの成果を実感して満足するだろう。そんなカネなら惜しいとは思わない。
だが、現実はそうではない。だから、募金者を疑っているわけでもないのに、募金というものには、どこかで胡乱な感じがつきまとって、小銭程度のことしかする気になれない。
実際のところ、年間に10万円くらいの寄付をしたところで、何の痛痒もないのに、それができない。小銭程度なら出せるというのは、ほとんどお賽銭ではないか。まるで、私にのしかかってくる、この理不尽な苦痛を追いはらうために、お賽銭を放り込んで、お祓いでも受けているような感じではないか。一一それと、いったいどう違うというのだろう。
きっと、この「苦痛」あるいは「不全感」を拭いさるためには、私は、じかに誰かを救わなければならないのだろう。
お金ではなく、私が、私の時間を使い、私の手を使って、具体的に特定の誰かを救えば、私はやっと満足できるのであろう。だが、私は、他人のために自分の時間が削られるのが、何よりも嫌だ。自分の時間を取られるくらいなら、その「対価」としてお金を出した方がいいと思う。しかし、それでは、私の不全感が解消されることはない。
この議論は、堂々巡りだ。だから、解決しない。
いや、この世界において、私が何をどうしようと、こうした不幸な子供たちがいなくなることなどないのを知っているから、つまり、解決しないことを知っているから、私の不全感も解決しないのだろう。
こうした、私の中の議論が、益のない、他人から見れば面倒くさいだけの「独り善がり」にしか見えないことなど、重々承知しているつもりだ。
「そんな気持ちなんか、どうでもいいんだよ。本気で子供たちを救いたいと思っているのなら、自分で具体的に動いて、具体的な誰かを救えよ。それが出来ないのなら、四の五の言わずにカネを出したらいいんだよ。要は、おまえの気持ちなんかどうでもいいんだ。一人でも二人でも、子供を救うことが大切であり、私たちにできることはそれしかないんだから、救えない子供のことを気に病んで、その、気に病んでいることに止まって、何も出来ないとか、何もしないなんてのは、見ていてイライラするんだよ」一一そんなふうに非難されるのかもしれない。
たしかに「そのとおりだ」と思うから、私は、途方に暮れているのだ。
「目の前の子供を救え」というのは正論だが、それは「それ以外は、諦めろ」と、言外に言っているのではないのか。「諦めろ」とまでは言わないが、「どうしようもないもののことまで考えるな。大切なのは、目の前の問題を一つ一つ、解決していくことなんだ。あなたのような、下手の考えは、休むに似たりという以上に、タチの悪いものだ。だから、考えるな。自分の体を動かすか、カネを出して、他の動ける人に、代わりに動いてもらえ」ということなのだろうか。それが出来ないというのは、「私が悪い」ということなのだろうか?
こんな私にだって、このような本を読んで「問題意識を共有する」ことくらいならできるし、「この問題を放置していてはいけない」とか「私たちはできるところから、やれることをやるべきだ」といったような「一般論」を書いたり口にしたりすることならできるだろう。それで、きっと、ほとんどの人はその「正論」に納得するだろう。だが、私は、そんなことをしたくはない。
そういう正論の人が、そう言いながらも、実際には、多くの場合には何もしないに等しくても、その人が、実際に何かをしているかしていないかなど、確認のしようもないのだから、どこかの誰かによる「正論」は、「正論」として認めるしかないからだろう。
そのような、実があるのか無いのかわからないような「正論」であろうと、そうした「正論」が、具体的に一つでも多く増えていけば、現実の政治を動かすためには「プラスになる」はずだから、その「言葉」に内実があろうと無かろうと、それは「募金で集まったカネ」のような実効性のあるもの(「金に色はついていない」)として歓迎されるのだろう。それで、一人でも二人でも、子供たちが救われるという「計算」になるのかもしれない。
けれども、それで、私の不全感を拭いさることは出来ないというのも、また事実だ。
実際のところ、今の私は、自分が生きていくのに困らないカネくらいはあるし、時間的余裕もある。つまり「恵まれた人間」である。
私は、高校を卒業し、1年半の就職浪人にあとは、40年間、人並みに働いてきたが、結婚もしなければ、子供も作らなかった。だからこそ、私は、私一個を生かすためのカネと余裕を、今は持っている。
この「カネと余裕」は、私が結婚して、子供をなして教育を与え、といったことをしていたなら、決して手にできなかったものであろう。それでも私は、本当に「恵まれている人間」なのだろうか? むしろ、私は「恵まれない」ことを選ぶことによって、「恵まれることを望む」ための苦しみを、周到に回避してきた人間なのではないだろうか。
結婚しなければ、愛していたはずの女性を、嫌いになったり憎んだりして、お互いに不幸になることもない。友達なら、嫌になれば連絡を取らなければいいだけで、その友達のその先についてまで、責任を感じる必要もない。
子供を作れば、可愛いだろうし、他にかえがたい幸福感を得られるだろうが、しかし、どう考えても、子供を一人前にまで育てるのは大変なことだろう。そしてその途上で、うまくいかない事態に陥る可能性もあるだろう。「こんなことなら、子供なんて作るんじゃなかった」と思うようになるかもしれない。そうなった場合、では、子供を捨てれば良いのかといえば、もちろん、そんなことはできない。親には、子供に対する責任があるからだ。
しかし、どうなるかもしれない未来、しかも自分だけではなく、それぞれに意志を持って生きている妻や子供の未来までを、私が見通すことなどできるわけがなく、私が無難に生きていたとしても、それでも予期せぬ不幸がおとずれたり、思わぬ失敗を犯して、妻や子を苦しめることになるかもしれない。
まあ、妻は「共犯」みたいなものだから、私一人が責任を感じる必要はないだろうが、子供には責任はないだろう。そんな性格に生まれたのも、そんな生き方をしなければならないようになったのも、子供ならば、やはり「親の責任」だと言えるだろうし、そう考えるべきだと思う。
大人になった、その先までの責任は取れないとしても、子供が「本人の意志」であれ、結果的に「不幸」になったのであれば、それはそのように育てた親である「私の責任」であろう。そう考えるべきだと、私にはそう思える。一一だから、私は、子供を作るということができなかったのだ。「そこまで責任は取れない」と思うし、「責任を取らなくても良い」とも思えないからだ。
ならば、私は、無責任に、子供を作るべきではない。その子供が「幸福に育って当たり前、不幸になったら親の責任」だというのであれば、どう考えても、私はその「不利な賭け」を選ぶわけにはいかないのだ。そうではないだろうか?
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本書に描かれた「子供たち」の不幸の原因には、まず「家庭=親」にあり、そして「男・社会」にある。
子供に、まっとうな生育環境を与えるべき親が、その責を負わずに、子供を不幸な環境に置く。その結果として、子供たちは、やむを得なく、つまり、選択の余地なく、ほとんど必然的に「不幸なパターン」にハマっていく。
「男」たちはしばしば、その「社会的優位」を当然のものとして行使し、女性を虐待する。虐待しているという意識など、当然ない。なぜならば、それは、当然なすべきことをなしているだけでしかない、つもりだからだ。
しかし、そんな「親」たちが悪い、「男」たちが悪い、と言ったところで、その「親」も、その「男」も、似たような「親」や「男」たちによって育てられ、好むと好まざるとにかかわらず、そんな「無責任な半端者」に育て上げられたのである。
彼ら彼女らは、すでに「大人」であるから、その当然の責任が問われることはあって、「被害者」扱いにはならない。もはや「被害者」としての保証期限が切れたというようなことなのかもしれないが、彼らは「被害者」ではなく「愚かな加害者」でしかなくなってしまう。
しかしまた、そんな「親」や「男」の「被害者」である少女たちも、いつ、そんな「親」になるかはわからない。
本書では、子供を大切に育てようとする、健気な少女たちだけが紹介されているが、現実は、そう「好ましい事例」ばかりではないのは、明らかだ。
むしろ「恵まれない環境」に育った者は、「恵まれない環境」を当然のものとしてしまう「大人」になってしまう蓋然性が高い。つまり「不幸の連鎖」であり「暴力の連鎖」といった、論理的な必然性を持つ「現実」である。
悪い「親」も、悪い「男」たちも、ともにかつての「被害者」であったとしたら、その責任が、現時点での「年齢」だけを基準にして問えるものなのだろうか? 若いから「被害者」で、歳をとっているから「加害者」。「女」だから被害者で、「男」だから加害者なのか。
そんなことはあるまい。たぶん、あらゆる人は、多かれ少なかれ、被害者であり加害者なのだ。
虐待の責任を、親に問うても、問題は、その親の親にまで遡行することにならないだろうか?
その出来の悪い親もまた、できの悪い親に育てられたのだろうし、その出来の悪い親の出来の悪い親もまた、出来の悪い親に育てられた蓋然性が高い。このように、真に責を負うべき「不幸の原因」は、無限後退的な遡行を要求するものとなってしまう。
これは「DV男」たちだって同じで、彼らがそんな「出来損ない男」に育ってしまったのは、そんな「親」に原因のある蓋然性が高い。とすると、出来の悪い男の「被害者」性を認めるなら、その責を負うべき「親」の場合もまた、無限後退的に「親の親の親」へと、責任の無限後退を認めないでは、無責任な議論になってしまう。
しかし、こうした議論は、いかにも「頭でっかちで、役に立たない男」のものであり、現場で戦う「現実的な女性」たちなら、良くて、眉をひそめて通り過ぎるのが関の山であろう。
結局、私たちは「無駄に考える」ことなどせずに、目の前の不幸に、具体的に手を差し伸べることをしなければならないのであろう。
しかしまた、目の前の問題だけを見ていられるような人間であれば、そもそも自分とは直接関係のない「他者の不幸」など気にすることもなく、目の前の快楽に耽溺して、平気で犠牲者を生み続けることもできるのではないだろうか。
どうにもならないことなど、くよくよと考えることなく、自分の喜びだけを求めて生きるそんな人間が、しかし、「子供の悲劇」を再生産しているのではないだろうか?
私の、こうした「悩み」は、贅沢なものなのだろう。
そんなことは、言われなくてもわかっているが、私は、好きでこんな性格になったわけではないし、考えないで済ませられるような人間になれるものなら、気づかないうちに、そうなっていれば良いとも思う。何も考えない馬鹿の方が、よほど主観的には幸せに生きられるのではないかと思う。無論、子供たちの犠牲を生み出し続けながらだ。
それでも、子供たちに幸せに生きて欲しいと願ってしまう私は、矛盾しているのだろうか? あるいは、単に高望みをしているだけの、贅沢極まりない人間でしかないのだろうか? そんな贅沢など、望んではならないものなのだろうか?
(2022年11月2日)
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