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森本あんり 『不寛容論 アメリカが生んだ 「共存」の哲学』 : 「闘う君のことを、 闘わない奴らが笑うだろう、 ファイト!」

書評:森本あんり『不寛容論 アメリカが生んだ「共存」の哲学』(新潮選書)

愛は平和ではない
愛は戦いである
武器のかわりが
誠実(まこと)であるだけで
それは地上における
もっともはげしい きびしい
みずからをすてて
かからねばならない
戦いである一一

わが子よ
このことを覚えておきなさい

 (ネール元インド首相の娘への手紙)

1973年から1976年まで「週刊少年マガジン」誌(講談社)に連載された「原作:梶原一騎・作画:ながやす巧」による長編マンガ『愛と誠』の(第1巻)冒頭に掲げられているのが、上のエピグラフである。

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本書『不寛容論 アメリカが生んだ「共存」の哲学』で論じられるテーマは「寛容」なのだが、「寛容」とは、その耳ざわりのよいイメージに反し、その実践は決して容易なものではない。むしろそれは「戦い=闘い」であると言ってもいいだろう。
本書で紹介される、「寛容」論の先駆者たるロジャー・ウィリアムスの生涯は、まさに「寛容のための戦い」だったと言えるだろう。言い換えれば、こんな風になる。

  寛容は平和ではない
  寛容は戦いである
  武器のかわりが
  誠実(まこと)であるだけで
  それは地上における
  もっともはげしい きびしい
  みずからをすてて
  かからねばならない
  戦いである一一

  読者よ
  このことを
  覚えておきなさい

 ◯ ◯ ◯

本書は抜群に面白い。だが、同時に、きわめて重い「問い」を読者に課する一書でもある。
だから、「面白い面白い」といって読んでいるだけでは、肝心なところを見落としてしまうことにもなりかねない、と言っても過言ではないだろう。

著者は本書で「寛容の問題とは、否定的にしか評価できない対象、不愉快な対象に対する態度として存在するのである。言い換えれば、好ましいものを肯定するのは当然なのだから、そこでは寛容の問題は存在しない」という趣旨のことを、くりかえし語っている。つまり「寛容」とは、本質的に「その主張は認められないけれども、その存在は容認する」という「二律背反的な現実の、困難な引き受け」の態度だと言うのだ。

「寛容」が「私の高潔な心がけ」といった「独りよがり(自己陶酔)」的なものではなく、「嫌悪すべき相手」の切迫を前提とした「対他者」的なものであるとすれば、言うまでもなく、その実践は容易なことではない。また、だからこそ著者は「自分を寛容な人間だと思っている人」の自己認識は、多くの場合、誤認であると指摘している。

『 多くの日本人は、寛容は美徳だと思っているだろうし、自分のことをどちらかと言えば寛容な人間だと思っているだろう。だがそれは、あくまでも一般論であり、問題が他人事の時だけである。寛容の問いが自分自身に及び、深刻な利害が身の回りにひた寄せてくると、ようやくその不愉快さに思い至るようになる。
 ただ、そういう時にも、いきなり自分が不寛容な人間だとは認めたくないものである。すると、残る選択肢は「相手に非があるからしかたがない」という正当化である。昨今の社会問題では、何かと窮屈な正義をふりかざす人が目立つようになったが、それは結局のところ、自分が不寛容だという事実に目をつぶりたいからなのかもしれない。普段なら、本来なら、自分はもっと心の寛い大らかな人間なのだが、相手があまりにひどいから、やむなく社会正義のために批判するのだ、という自己解釈である。
 もしそこで、「自分は実のところ案外不寛容な人間だ」ということを受け入れたら、どうだろうか。「自分の意見や好みに合わない人には、どうしても否定的な評価をしてしまう。そのことを表面的に出さないように努めはするが、心の中のそういう思いは止められない」一一自分の内心をそう顧みている人に、「いや、それが寛容の本義です」と伝えたらどうだろうか。はじめから共存の道など考えもしない人は別だが、否定的な感情を内にもちながらも、何とか相手と一緒にやってゆこうとしている人が、「あなたこそ、寛容のお手本です」と言われたら、目を白黒させてしまうだろう。「突然そんなお世辞を言われても」と照れるかもしれない。そこで、もう一度その人に告げるのである。「いえ、お世辞ではありません。寛容はちっとも美徳ではないからです」。
 プロローグでも触れたように、内心はともかく他人への礼節は守ろうとするのが日本的な寛容であるとすれば、それは必ずしも頭ごなしに否定されるべきものではないだろう。』(P277〜278)

つまり、著者によれば、本来「寛容」とは、「見かけ」ほど立派なものではない「次善の策」であり、「功利的で政治的な態度選択」に過ぎない、ということになる。所詮は「本音をそのまま口にしたらケンカになるから、ここはニコニコしておこう。そうすれば角が立たない」というほどのことでしかない、と言うのだ。
だからこそ、上の引用文の最後のところで『必ずしも頭ごなしに否定されるべきものではないだろう。』と「必ずしも」「頭ごなしに」と二つも条件をつけた上で、さらに「否定されるべきものではない(=積極的に肯定すべきものでもない)」という、回りくどい言い方(二重否定による肯定)をしているのだ。

ところが、本書では「寛容」論の先駆者たる「ロジャー・ウィリアムズの苛烈な生涯」を肯定的に描いている。肯定的に描いておきながら、結論としては、しごく「無難なところ」へ落とし込んでしまっているのである。

『(※ テレサ・べジャンも言うとおり)ウィリアムズが唱えたのは、両手を拡げて心のそこから他者を愛し受け入れる、ということではない。彼は、「みんなちがって、みんないい」などと能天気に多様性を祝賀したのではなく、お互いが最低限の「礼節」(civility)を守るべきことを説いたのである。
 彼は、政権当局に対しても、対論者のコトンに対しても、イギリス本国のピューリタンに対しても、そしてクエーカーに対しても、真正面から批判することを控えなかった。相手の立場や体面を慮ったり、自分の損得を勘定に入れたりすることは、いっさいなかった。その点では、もう少し大人の配慮をしてもよかったのに、と思われるほど率直である。まことに不器用で、妥協を許さず、正直すぎるほどに直情傾向である。
 ただしウィリアムズは、誰かを批判する際にも、あくまでも礼節と礼儀をもっていた。彼らの社会的生存を脅かしたり、彼らの宗教行事を妨害したりすることは、けっしてなかった。それが、晩年のクエーカー論争で実際に証明されたことである。その結果、ロードアイランドは当時の世界でもまれに見るほど自由で寛容な社会になった。ウィリアムズの魅力は、頑固で偏屈な個人が多様で寛容な社会を作り上げたという、その不思議にある。』(P268〜266)

一見、もっともらしい意見ではあるが、この「まとめ方」は、ウィリアムズの苦闘の意味を、実質的に「骨抜き」にしてはいないだろうか。

ウィリアムズの「寛容」とは、要は「相手の権利を、暴力的に侵害しない」けれど「意見交換は、誤魔化しなく徹底的にやる」という、実にシンプルで、裏表のないものであろう。
そうした「思想の自由のための条件設定」と「思想表現の自由」を徹底するところから、「お互いに、信じる道をまっすぐに生きる」ための、「寛容」という「社会的条件」を生み出し得たのではなかったか。

ところが、本書著者の場合は、それを『最低限の「礼節」』という「日本人的なきれいごと」にまで約めてしまった。

無論、ここで言う『最低限の「礼節」』とは、『必ずしも頭ごなしに否定されるべきものではないだろう。』と、著者によって言われているものでしかないのだが、多くの読者はこの『最低限の「礼節」』が、なにやら「立派な態度」であるかのように「勘違い」させられるのではないだろうか。

と言うのも、著者は『真正面から批判することを控えなかった。相手の立場や体面を慮ったり、自分の損得を勘定に入れたりすることは、いっさいなかった。その点では、もう少し大人の配慮をしてもよかったのに、と思われるほど率直である。』と、ウィリアムズの「率直さ」を褒めるかたちで、彼の「率直さ」に、あれこれ「注文」をつけており、結局は、読者に対し「異論のある相手に対しても、相手の立場や体面を慮るべきだし、自分の損得を勘定に入れてもかまわない。それが普通の人間なのだ。その点では、ウィリアムズこそ、もう少し大人の配慮をしてもよかったのであり、率直に過ぎたとも言えよう。」と言っているに等しいのである。

だから、ここで言う『最低限の「礼節」』とは、実質的には「異論のある相手に対しても、相手の立場や体面を慮り、自分の損得を勘定に入れて、大人の配慮もして、結論としては、(ウィリアムズのような)率直な意見表明はしない」といったことになってしまうだろう。「それで良いのだ」と、著者は最後に「凡庸無難」なところに収めてしまっているのである。また、だからこそ、『内心はともかく他人への礼節は守ろうとするのが日本的な寛容であるとすれば、それは必ずしも頭ごなしに否定されるべきものではないだろう。』と言うことにもなる。

結局は、「平均的な日本人」が、もともとやっているようなことを「そのまま」肯定し、しかも、そんな「凡庸無難」で「偽善的」ですらあるものを、「ロジャー・ウィリアムスという稀有な人生」を持ち出してきて「権威」付けまでしているのだから、こうした「最低限の「礼節」=日本的寛容」論が、今の日本人の多くに「ウケないはずがない」。これこそが、大西巨人が言うところの「俗情との結託」ではないのか。

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しかし、これが本当に「ロジャー・ウィリアムスに学ぶ」ということなのだろうか。
彼に学ぶというのは「それが困難事であろうとも、どこまでも他者の思想の自由を尊重した上で、それぞれが忌憚なく自分の信念を語り合いぶつけ合うというところから、寛容という相互了解が生まれる」ということではなかったのだろうか。

本書著者や、著者が最終的に提示した『最低限の「礼節」』という結論をあっさり受け入れるような読者が、ロジャー・ウィリアムスの時代に、かの地に生まれていたとしたら、間違いなくウィリアムズを「礼儀知らず」呼ばわりして、迫害する側に回っていたと思うのだが、それはそれで「仕方がない」というのが、著者の「本音」なのだろうか。

だとすれは、本書は「寛容論」でも「不寛容論」でもなく、結局は、日本的な「ことなかれ論」の域を一歩も出ないものになってしまっているのではないだろうか。

また、私のこの「不愉快な異論」に対し、ロジャー・ウィリアムズのように、正面から反論してくる人など、本書に肯定的な読者の中には、一人も存在しない、ということになるのではないだろうか。

(※ 本稿タイトル「闘う君のことを、闘わない奴らが笑うだろう、ファイト!」は、中島みゆき作詞作曲「ファイト!」の歌詞からの引用です)

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初出:2021年1月25日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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