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本能寺の変1582 【重史109】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史109】 『信長公記』 

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 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
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4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 ←
(1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 
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 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

【重史109】 そ第11話㉕

①其の節、以て外の大雪なり。

②信長、馬上十騎・・・御伴なく、六条へ懸け入り給ふ。

                       『信長公記』

 永禄十二年1569、一月六日。
  【重史105】【重史106】【重史107】【重史108】より、つづく。

  同じ日、岐阜は、大雪に見舞われていた。
  そこに、「飛脚参着」。
  信長は、三好三人衆の襲撃を知った。

   正月六日、濃州岐阜に至つて飛脚参着。
   其の節、以て外の大雪なり。
  
  信長、身動きならず。
  「上様」
  一抹の不安が頭を過ぎった。 

   時日を移さず、御入洛あるべきの旨、相触れ、
   一騎懸に、大雪の中を凌ぎ、打ち立ち、
   早、御馬にめし候らひつるが、

   馬借(ばしゃく=運送業者)の者ども、御物を馬に負(おはせ)候とて、
   からかい(=争い)を仕り候。
   御馬より下りさせられ、何れも荷物一々引見御覧じて、
   同じおもさなり。
   急ぎ候へと仰せ付けられ候。
   是れは、奉行の者に依怙贔屓(えこひいき)もあるかと、おぼしめして
   の御事なり。
                           (『信長公記』)

  信長は、間に合わなかった。
  一月十日、上洛。

   以ての外の大雪にて、下々夫以下の者、寒死(こごへじに)も、
   数人これある事なり。

   三日路の所、二日に京都へ、
   信長、馬上十騎ならでは、御伴なく、六条(本國寺)へ懸け入り給ふ。
   堅固の様子御覧じ、御満足斜ならず。
                           (『信長公記』)

【引用】そ第11話㉕



 ⇒ 次へつづく

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