本能寺の変1582 第127話 15信長の台頭 3桶狭間 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第127話 15信長の台頭 3桶狭間
信長は、今川方から丸見えだった。
善照寺砦は、鳴海城に近接していた。
その間、およそ500~600m。
周囲には、遮るものなど何もない。
信長の行動は、敵味方からよく見えた。
小競り合いが始まった。
佐々隼人正と千秋四郎が討死した。
信長、善照寺へ御出(い)でを見申し、
佐々隼人正・千秋四郎二首(かしら)、
人数三百計りにて、義元へ向つて、足軽に罷り出で侯へば、
(今川方が)ドッとかゝり来たりて、
鎗下にて、千秋四郎・佐々隼人正を初めとして、
五十騎計り討ち死にし、
千秋四郎(季忠)は、熱田大宮司千秋季光の子。
知多郡、羽豆崎城主。
神官でありながら、信長に仕えた。
享年、二十七。
佐々隼人正は、成政の兄。
信長の父信秀の代、小豆坂の戦い(天文十一年1542)で戦功をあげた
という。
年齢不詳。
今川義元は、油断した。
義元は、上機嫌だった。
「幸先のよいことよ」
間もなく、である。
「信長の首」
そう、思ったことだろう。
そこに、油断が生じた。
是れを見て、
義元が戈(ほこ)先には、天魔鬼神も忍(たま)るべからず、
心地はよしと悦(よろこ)びて、
緩々(ゆるゆる)として、
謡をうたはせ、
陣を居(す)えられ侯。
このことが、将兵らの士気の緩みを生み、・・・・・。
結果、義元の命取りとなった。
信長は、中島砦に入った。
信長は、佐々・千秋らの軍勢が出撃したのを見た。
その隙に、中島砦に入る。
桶狭間へ、凡そ半里(2km)。
指呼の距離にいた。
信長、御覧じて、中島へ御移り侯はんと侯つるを、
脇は、深田の足入れ、一騎打ちの道なり。
無勢の様体、敵方よりさだかに相見え侯。
御勿体なきの由(=良くない)、
家老の衆、御馬の轡(くつわ)の引手に取り付き侯て、
声々に申され侯へども、
ふり切つて中島へ御移り侯。
この時、信長の軍勢は僅か二千。
不完全とはいえ、尾張統一の後である。
実際は、もう少し多かったのではないか。
此の時、二千に足らざる御人数の由、申し侯。
(『信長公記』)
太田牛一は、信長の家臣。
今川・織田の兵力について、義元の軍勢を過大に、信長のそれを過少に、
書き表すことによって、織田方の勝利を際立たせようとした。
その様に、思う。
⇒ 次へつづく 第128話 15信長の台頭 3桶狭間
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