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本能寺の変1582 【重史110】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史110】 『信長公記』 

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 ←
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 ←
(1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

【重史110】 そ第11話㉕

①池田せいひん、今度の手柄の様体聞こしめし及ばれ、

②御褒美、是非に及ばず。

                       『信長公記』

 永禄十二年1569、一月十日。
  【重史105】【重史106】【重史107】【重史108】【重史109】
  より、つづく。

  信長は、手柄の者たちに褒美を与えた。

   池田せいひん、今度の手柄の様体聞こしめし及ばれ、
   御褒美、是非に及ばず。
   天下の面目、此の節なり。
                           (『信長公記』)

  光秀は、幕府の足軽だった。
  義昭の家臣リストの末尾に、その名がある。
  「足軽衆・・・・・・・・、明智。」
               【重史051】 「永禄六年諸役人附」

  信長は、光秀に褒美を与えた。
  おそらく、そうだろう。
  光秀は、本國寺にいた。
  将軍義昭の「命」を守った最大の功労者の一人。
  『信長公記』に、その名が記録されるくらいなのだから。
                             そ第11話㉔

  信長は、光秀を抜擢する。
  この事件が、直接のキッカケになったのではなかろうか。
  信長の抜擢は、以後、程なくしてのことである。
  これについては、後述する。

【引用】そ第11話㉕



 ⇒ 次へつづく

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