本能寺の変1582 第131話 15信長の台頭 3桶狭間 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第131話 15信長の台頭 3桶狭間
以後、今川氏は衰亡の道を辿る。
今川氏は、大きな痛手を蒙った。
失ったものがあまりのも多すぎた。
嫡男氏真にとっては、荷が重すぎた。
やがて、没落する。
山田新右衛門と云ふ者、本国駿河の者なり。
義元、別して、御目に懸けられ侯。
討死の由、承り侯て、馬を乗り帰し、討死。
寔(まこと)に、命は、義に依つて軽し、と云ふ事、此の節なり。
二股の城主松井五八郎・松井一門一党弐百人、枕を並べて討死なり。
爰(ここ)にて、歴々、其の数、討死侯なり。
義元は、二の江の坊主と連携していた。
服部左京助(二の江の坊主)が、義元に呼応した。
同氏については、前述した。
【参照】13上総介信長 6道三の最期 104
【参照】13上総介信長 9斯波義銀の裏切り 111
爰に、河内、二の江の坊主、うぐゐら(鯏浦*)の服部左京助、
義元へ手合せとして、
武者舟干艘計り、海上は、蛛(くも)の子をちらすが如く、
大高の下、黒末川口まで乗り入れ侯へども、
*鯏浦(うぐいうら) 愛知県弥富市鯏浦町
負け戦が耳に入ったのであろうか。
何もせず、引き返した。
別の働きなく、乗り帰し、
その途中、熱田に放火しようとする。
しかし、町人たちに逆襲され、失敗した。
もどりざまに、熱田の湊へ舟を寄せ、遠浅の所より、下り立つて、
町ロヘ火を懸け侯はんと仕り侯を、
町人ども、よせ付けて、ドウッと懸け出だし、数十人討ち取とり候間、
曲なく(仕方なく)、川内へ引き取り侯ひき。
頸数三千余。
同日(五月十九日)。
信長は、帰城した。
「大勝利」
城下は、沸き立ったことだろう。
上総介信長は、御馬の先に今川義元の頸をもたせられ、
御急ぎなさるゝ程に、
日の内に(まだ日のあるうちに)、清洲へ御出でありて、
同二十日。
首実検。
翌日、頸、御実検侯ひしなり。
頸数、三千余あり。
信長は、義元の最期の様子を聞いた。
信長は、義元の同朋を生け捕りにした。
その者から、最期の様子を聞く。
然るところ、
義元のさゝれたる鞭(むち)・ゆがけ(革手袋)持ちたる同朋(どうぼう)、
下方九郎左衛門と申す者、生捕りに仕り、進上侯。
近比(頃)、名誉仕り候由、候て(珍しい手柄だということで)、
御褒美、御機嫌斜ならず。
義元、前後の始末申し上げ、
頸ども、一々、誰々と、見知り申す名字を書き付けさせられ、
彼の同朋には、のし付の大刀・わきざし下され、
信長は、義元の首を駿河へ届けた。
信長は、死者に対して、きわめて丁重だった。
そのことがよくわかる。
其の上、十人の僧衆を御仕立て候て、
義元の頸、同朋に相添へ、駿河へ送り遣はされ侯なり。
信長は、義元塚を築いた。
清洲より廿町(≒2km)南、須賀*口、熱田へ参り侯海道に、
義元塚とて築かせられ、
弔(とむらい)の為めにとて、千部経をよませ、
大卒都婆(そとば)を立て置き侯ひし。
*須賀 名古屋市熱田区須賀町
名刀、左文字。
「義元左文字」と称される。
現在、京都の建勲神社に所蔵されている。
元々は、三好宗三(政長)が武田信虎(信玄の父)に贈ったものと云う。
それが、さらに、信虎から、今川義元に贈られた。
すなわち、三好宗三から→武田→今川→信長へと主を変えたことになる。
刀の差表*に、「永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀」。
差裏*に、「織田尾張守信長」、とある。
そして、やがて、→秀吉→家康へ。
戦国の世の変遷を見た名刀である。
*差表 刀を腰に差した時、体に当たらない側。表側。
*差裏 〃 〃 、体に当たる側。内側、裏側。
今度、分捕りに、
義元、不断さゝれたる、秘蔵の、名誉の、左文字の刀、めし上げられ、
何ケ度も、きらせられ、
信長、不断さゝせられ侯なり。
御手柄、申す計りもなき次第なり。
今川勢は、全軍撤退した。
これで、東方の脅威は消えた。
信長の、失地回復、成る。
さて、鳴海の城に、岡部五郎兵衛(元信)、楯籠(たてこも)り侯。
降参申し侯間、一命助け遣はさる。
大高城・沓懸城・池鯉鮒(知立)の城・鴫原(しぎはら)*の城、
五ケ所同事に退散なり。
家康が岡崎城に入った。
今川勢の撤退により、岡崎城が空き城となった(愛知県岡崎市康生町)。
家康は、これを見て、入城。
幸運だった。
否、運が向いて来た。
いよいよ、ここから、である。
一、家康は、岡崎の城へ楯籠り、御居城なり。
(『信長公記』)
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