
くたびれた日の話
今回は自分の調子が良くない日、心身の波が沈んでいる時の話をしたいなと思った。
楽しい時だけでなくとも人はほほえむ気持ちになれるように、悲しくなくても泣ける時というのがある。感情は上がる大きさの分だけきっと下へ沈むこともあって、その反動だけの幅がある気がする。自分はこの可動域が果てしなくて大袈裟な言葉になるが宇宙の広がりと比例しているのではとすら思えて来る。
どうしてなのか分からないけれど、私は泣いている時にとても『生きている』を体感する。
泣くと体の胸辺りが温かくなってきて、自分の柔らかい体温の温みをまじまじと感じられるからなのかもしれない。涙は、心が生きて温もりがわずかにでもないと出せないのじゃないかなと思う
そしてこの“心が生きている”というのは、感情を感じられる状態のことを示すのだと捉えている。
感情を感じられるには、心が柔らかくないと本来の感情というものはきっと味わえない。体と同様、心は固く凝り固まっていると自分の内側から生まれる純粋な欲というものが分からなくなるのだ。
人間は心から自発的に出てきたものを、頭で順序立て体を動かして物事を実行実現していくことができる。それが本来の順序だとすると人間は明らかに頭を使い過ぎている。こういった時は特に無駄に回転させているように思う。
調子が波打っている時、全体のバランスを確かめることから始めるといいのかもと思った。もちろん感情のウェーブが来ている時にそんなゆとりはないのだが。
私が心を深く沈ませた時は、視界に見える物全てが少し色褪せて見える(そんな感覚)。自分の心情の暗さで目の前にある物や同じ空間にいる人をどこまでもくたびれさせることができるんじゃないかと思うくらいの重さに纏われる。
この深さにとらわれている時は決まってとても視界が狭く、呼吸は浅くそしておそらく心は固くなっている。
“深み”という枠に位置する感情は人を思慮深く奥行きのある人間にしているように思えていたが、本当はそんな重みを取っ払った状態の“浅さ”に戻ってこれてこそ、その深みは何かに変換し活かすことができるのだと思った。
浅く軽い視点に立つことができれなければ、自分がどこまでの深い場所へ潜っているのか?の全容が見えないからだ。
どれだけ没頭して奥底に潜っていようと海面に浮上して来ないと呼吸は吸えない
自分の内側から湧き出てくる感情を物理化したものが涙や罵声なのだとしたら、こうして分かりやすく吐き出せる機能が人間にあって良かったと思う。
だか真っ直ぐに泣けていた頃から見ると、心はやっぱりまだ固いのだろうと思う時がある。泣きたいのに泣けない時やストレスをどう解消していいのか分からない時は、別のことをきっかけとして涙を出す。自分の人生の中で、思い出すと必ず泣ける記憶を引き出し使って存分に涙に浸る。
「泣きながらご飯を食べたことがある人は大丈夫だ」という言葉の真意は良く分からない、
「何があっても食べていれば大丈夫」という意味なのか「そんな辛い思いをしたあなたは必ず報われるよ」なのか、まあなんでもいいんだけども。
ただ食べることと泣くことが分かりやすく“生きている”ことを体感できることだけは分かった。
この泣ける感情すら感じることができず、虚無や「何も感じない」領域に突入してしまうと、“生きている”ことを感じられなくなる。人間として生存しているのではなく、「ただ呼吸をしているだけの生物」といった感覚になる。ここまで来ると健全な状態に戻るまで、長期的な時間を要する。
食べた時のおいしさ、干したてタオルの肌触り、小鳥の声や石鹸の匂いなどへ反応していたはずの五感の感覚が薄まり『快』の感情が一切封じられたみたいにまるで色の落ちた世界を眺めているようだ
日常を過ごす中で人に必要なのは眩しい光ではなく豊かな色なのではないだろうかと思うようになった
綺麗だなぁと落ち着いた心で思う時、心の琴線に届くものは輝きよりも彩りだった気がする。その色合いが心を活かしてくれている
だから人は色がないと、そして色を拾えるだけの柔らかさがないと心に栄養を与え巡らせることができず廃れていってしまうのかもしれない。(根底には光も必要だと思うが)
心は体と違って見ることができないから、どんな状態なのかが分かりにくくて気付くことが遅くなるが、心の柔らかさそして色合いがないと活きた人生は始まらない。
マイナス感情と呼ばれるものたちはとてもエネルギーを食う。すごい勢いで消耗していき自分の中でぐるぐるとどす黒い塊が渦巻く
感情はどうして見えないのだろう?数値化できたり、色が付いていて可視化できていればもっと分かりやすく扱っていけるのになと思う。
自分ではない何かに生まれ変わって明日から別人として生きていけたらと塞ぎ込む暗い夜がある。
変えたいことが多すぎて一気に向き合え切れない
自分の力では到底及ばないものに、素手で刃向かっていくような無謀な大きさの無理を感じる。
全てを諦めるということをしたくなるのは、この体感時間が一定を超えた時だ。
自分の内側に抱えて来たマイナス面と向き合い始めることは、プールの渦回転を反対向きに変えた瞬間の敵わなさに似ている
「絶対に一生変わらない」としか思えないほどに弱気に飲まれる
どんなことでも必ずより戻しは起こる
理解したつもりになっていることでも、一度や二度で真っ新になれるレベルの状態ではないことを何回も思い出す必要がある
自分がまた不調の波に飲まれるいわゆる「不調に戻る」こと込みで変化を見ようと意識すること
一年くらいで全てを変えられるほど、人間の「現状維持能力」は安く構成されていない
まだまだ弱る、どす黒い感情に飲まれる、不調のより戻しは起こる
321で変われることなんて本当た表面的なことしかないんだと思う。簡単に「変わらない」ようになっている人間の機能の凄さを体感している
だけど変わりたいと思っているから苦しかったりという感情が出てくるわけであって、その自分は確実に「これまで」とは違った歩みをすすめている
私はメンタル潜伏期間、こういったことを語りたくなる。自分はどうして生きているんだろうと思える日もある、もう拉致のあかないほどダメな日はとことん自分のダメさを体感する。
答えのない暗い森で泣いたり焦ったり罵倒したりして眠れない夜を超える
そんな日は朝が来ても清々しい気分にはなれない
朝日の眩しさにすら嫌気が差して澄みやかな空に似つかわしくない気持ちが心を曇らせる
このnoteで自分が綴ってきた文章はこういったモードになった時の自分に向けて書いている節もある
節が多いほど丈夫な竹になると言うけれど
“自分と向き合うこと”を始めたからこそ起こった変化の節があるはずだ
その変化ってやつは「いいもの」とは限らない
変化の根源にはいつも自分の“変わりたい”があった
自分の不調な期間に思っていること感じていることについて話してみて、やっぱり人間は綺麗な面や強い顔だけでは生きていけないなと改めて痛感した気分です。これからはこういった面の話も包み隠さず話していきたいと思った。