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傲慢と善良を読んで…

辻村深月さんの『傲慢と善良』を改めてじっくり読んでみた。
やっぱりとても面白く、ハッとさせられる場面や恋愛を通した状況とそれぞれの感情の動きから各登場人物の言葉がとても的を得ていた。

キャラクターそれぞれに少しずつ「分かる」と思える感情があって色んな情景を旅できた感覚がある。人間の汚い面や醜い感情がメインで描かれているためこういったシチュエーションを使ってこの感情を伝えてくるの、すごい!と思わされた。

読んだ感想と思ったことと、覚えておきたいことをつらつらと綴ります。
(紹介をするためではないので、あらすじや内容の説明はしていません。)
※以外、ネタバレ・個人的解釈を含みます。




一見善良なように見え、とても傲慢な部分。
一方傲慢なように見えて、とても愛がある人。

表面だけでは見切れない、自分の汚い感情を“知らない”まま大人になることの怖さ。
時を経てから事の大きさに気付く、途方もなさ。

恋愛は大きな幸せを感じやすい分、自分のイヤな面・汚い感情も露骨に目の当たりにする。
それを認めたくなくて失敗をしたり、色んな人と付き合い別れ恋愛をリアルに体感する中で、少しずつ反省や学びを経て自分のことも、相手とのことも掴めるようになってくる。
そのスタートを後回しにする無謀さ。

自分のことを見て欲しい・分かって欲しいくせに言葉に出して伝える努力はせず、どうにか構ってもらうため、被害者としての立場をとって相手の気を引く。
自分への評価(自己肯定感)は低いのに、プライドと自己愛が高くてそのままの自分を愛して欲しい。

そして相手に「どうして分かってくれないの?」を求める。

つまり、「自分は変わらず」して、相手には「理解してほしい」のだ。

この主人公の言動まではいかなくとも、恋愛においてこんな状態を体感したことのある人はとても多いんじゃないかと思った。(過去の自分もそうだ)

綺麗潔白を名乗る人ほど怖い者はない。
本当は「潔白」などはなく、自分に対して「無知」なだけということなのかなと思う。
主人公はいわゆる“善人”というポジションで生きて来たわけだが、本当は“善良なだけ”“綺麗なだけ”の人なんて存在しない。自分のことを理解せず問題を無視して“そう生きるしか知らない”というのもまたひとつ傲慢なのかもしれない。
自分の醜さがはっきりと見えていないからまだ知らない、理解していない、認識していないだけ、「自分と向き合うことを知らない」ということ。

主人公はお膳立てをされて生きて来たため“自分”というものがなかった。言い方を変えれば「自分で考える機会を奪われてきた人」だったので、
決める力、選ぶ力、そして最も側に居る“自分”を見つめる機会も少なかったのだなと思うと、親の過剰な“善行”と呼ばれるものは、子にとっては自立心を育めないことにより起こる経験不足といった“悪”にすらなり得るなと思った。


当然だが汚い面も持ち合わせてこそ人間なのだ。
その汚さのなかにも、自分にとって必要な変化や改善・向き合うべきことは向き合わざるを得ないような展開になって来るんだとも思う。

その向き合うタイミングを先延ばしにするのか今してしまうのか?その違いなだけであって、どんな人だろうと『自分という人間』からは一生逃れられない。人生、どこまでいっても自分と向き合うことは決して避けられないということだ。

そんなことを改めて感じさせられた作品だった。


結婚相談所の女性がズバッと刺した一言、母親と姉妹のこれまでについて、婚約者の元カノから見えていた景色、きつい印象を受けた女友達の発言過去のお見合い相手の現在と馴れ初めなどについても、また色んな方向から綴ってみたいと思う。

『善良』『傲慢』が色んな人の中に交差し垣間見えて、幾パターンものそれが読み解けて面白い。
人間の、一見人に見せないところに位置する汚い感情や醜さを描かれている作品はすごく見入ってしまう。いや〜とても面白い。読むのにとてもエネルギーを使うのだけれど、そう分かっていてもまた読みたくなるのだろう。

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