【分野別音楽史】#03-1 イギリスの大衆音楽史・ミュージックホールの系譜
『分野別音楽史』のシリーズです。
良ければ是非シリーズ通してお読みください。
一般に学問として主流となっているクラシック音楽史というのは実質、19世紀に確立した"ドイツ美学"のまなざしで切り取られた「独・仏・伊」中心のブルジョワ音楽をめぐるストーリーだったのですが、19世紀の同時期のイギリスやアメリカでは既にポピュラー音楽史の重要なルーツが出現しています。今回からはそちらを追っていくべく、まずはイギリスの「ミュージックホール」を中心にした大衆劇場の音楽史を追っていきたいと思います。
◉前史
イギリスの民謡は、15世紀ごろまでは人々が円になって踊りながら歌うというような形だったそうですが、やがて吟遊詩人が歌う形となり、「語り物」的な要素が強まっていきました。こうして、16世紀から17世紀にかけては物語的通俗歌曲として「バラッド」が流行します。伝承的なバラッドに加え、新聞のような役割で時事的な物語として歌詞が印刷された大判の紙(ブロード・シート)が売られ、それが既存のメロディに当てはめて歌われたことから、これがブロードサイド・バラッドと呼ばれました。イギリスの民衆のあいだでは、街灯、市場、公開処刑など人の集まるところで歌われていたと言います。
18世紀ごろには、イギリス・ロンドンはフランスのパリと並ぶ国際音楽都市となっており、オペラやオーケストラなどのコンサートも多く開催されていました。上流階級向けの娯楽としては、巨大娯楽場プレジャーガーデンが誕生し、オーケストラによるコンサートのためのホールや社交ダンス場、劇場などが集結していました。(遊園地の起源といわれています。)また、民衆娯楽の場としては、定期開催される商取引の場「市」での見世物(サーカスやミュージックブース)が盛んだったそうです。
このころ、上流~中流階級の人々が「読書」ブームで新聞を読むようになり、ブロードサイド・バラッドは読み書きのできない貧民たちの声を伝えるメディアと化していきました。そうした流れからか、バラッドに対して上からの規制も強まっていくことになります。特に政治を風刺した内容のバラッドは街頭での取り締まりの対象となり、「民衆が集まるところは犯罪の温床になる」という理由で、市やプレジャーガーデンに対しても当局の規制が次第に強まっていったそうです。
19世紀に入り、「酒と演し物」を売り物をする娯楽場の数は増加の一途をたどっていました。イギリスには上流階級の紳士限定の「ソング・アンド・サパー・ルームズ」というダイニングクラブがうまれました。また、コメディなどの軽い演劇を見る劇場としては「サルーンシアター」、大衆向けではパブでの素人演芸「フリー・アンド・イージー」が人気になります。こうして、ジェントルマンからごく普通の労働者に至るまで、音楽や演し物を人々は享受していたのです。
1832年、選挙法の改革後、労働者による運動が高まり、1838年頃からの「チャーチスト運動」が盛り上がるようになると、行政当局は警戒感を覚えるようになり、人々の集まる「フリー・アンド・イージー」にも規制の手がかかってしまいます。上流階級は「労働者たちにも酒の代わりに団体旅行や読書などといった趣味を与えて、生活を矯正させよう!」という動きがあり、行政もこれを支持して民衆の余暇時間までもを取り締まろうとしていきました。
1843年、劇場法が改正され、公式な劇場のみで上演が許されていた「シェイクスピア」などの正劇を小劇場にも上演許可する代わりに、酒類の販売を禁止。行政当局としては、酒の販売をあきらめて芝居のライセンスを申請してほしかったのですが、フタを開けてみれば、芝居の上演をあきらめて「酒と歌と踊り」を選ぶ経営者がほとんどでした。行政当局は、急増したパブのライセンス申請を却下の応酬で応えます。
そこでイギリスの労働者たちにとって、「劇場でもパブでもない新しい施設」が必要となったのでした。
◉1852年~ ミュージックホールの誕生
1848年、パリやベルリンでは革命の嵐が吹き荒れたのと対照的に、イギリスではチャーチスト運動は収束していきました。そんなロンドンにて、チャールズ・モートンという男がパブを買い取ります。客寄せのために小部屋でコンサート(フリー&イージー)を催し、評判となります。モートンは、これを大衆音楽の殿堂にしようと構想しました。
1851年、第1回 国際博覧会がロンドンにて開催。大英帝国の威光を見せつけ、国際情勢に変化が起こっていきます。人口調査では初めて、都市が農村を上回り、上流社会からのトップダウンでしかなかったクラシックのような貴族エリート文化(農村のリズム)とは違った、労働者階級向けの都市文化が生まれる土壌ができあがっていました。
1852年、モートンはパブを改めミュージック・ホールとして「カンタベリ」という施設を完成させます。それまではミュージック・ホールといっても演奏会の会場という意味しかなかったのが、産業革命後の都市空間の発展にともなった上流社会と下流社会の分断によって、「ジェントルマンやミドルクラスのコンサートとは違う、労働者のための“娯楽空間”」を示す語として再定義され、名目上パブとも劇場とも違う、「酒と歌と踊り」のための施設が誕生したのです。
・手ごろな料金(6ペンス)
・大規模な施設
・広告の使用
・女性や子どもにも開かれた施設を目指したこと
・猥雑さを払拭した演し物の充実化
など、モートンの巧みな経営主眼により、ミュージックホールのスタイルが定まっていき、発展していきました。
◉19世紀後半~ ミュージックホールの発展
ミュージックホールが誕生し、枠組みとしてはパブなどから更新されたものの、しばらくのあいだ音楽内容としては芸人によるバラッドなどそれ以前のパブと変わらないものでした。チャールズ・モートンの目論見としては家族路線を目指していたものの、実態はまだまだパブ的な場として機能しており、お客さんも芸を酒の肴としか見ていませんでした。
ですが、1870年代になると、ミュージックホール用の歌をつくる専門家が登場します。スター・システムが登場し「売るため、売れるための曲作り」がなされるようになります。つまり、商業性を帯びた流行歌の生産がはじまったのです。
歌のテーマとして「労働者の夢物語」「都会をスマートにエンジョイする洒落者(ライオン)を気取る歌」が労働者をターゲットに成功し、「ライオン・コミックス」と呼ばれました。ジョージ・レイボーン(1842~1884)の歌う「シャンパン・チャーリー」という曲や、アルフレッド・ヴァンス(1839~1888)の歌う曲などがヒットしました。
しかし、この時期に前後して普及していった「鉄道旅行」や「スポーツ観戦」など、ブルジョワジーらの文化では、酒から切り離して健全に楽しむことが模範とされていた中、酒を煽り立ててアドリブやアンコールがとめどなく続くミュージックホールの音楽文化はまだまだ悪印象でした。
そこで、中産階級の新しい客層を招き入れるべく、レスペクタビリティ(健全化)の追求がなされていきます。それに伴って流行したのが、“愛国的ソング”でした。
19世紀の世界はイギリスの覇権でしたが、19世紀後半になるにつれて徐々に揺らぎ始め、各国は「帝国主義」による植民地の相互防衛連合作りがはじまっていきます。相次ぐ戦争によってイギリス国民にも愛国感情が高まっていました。中産階級以上の人々は文字が読め、メディアによって政治の話題を吸収していましたが、労働者階級にとってはミュージックホールの場で政治の話題を共有していたようです。そういった場で、音楽を通じて「大英帝国愛」を高揚させていったのです。
1877年、G・W・ハント作曲による「マクダーモットの戦争の歌」が大ヒットします。曲中の「バイ・ジンゴ!」の掛け声がキャッチフレーズとなり、10年以上のロングヒットとなります。この掛け声にもともと意味はなかったのですが、1880年代の政治ソングの流行と結びつけられ、「愛国主義=ジンゴイズム」「愛国歌=ジンゴ・ソング」と呼ばれるようになります。もっとも、ミュージックホールの客に政治の難しいことが理解できていたわけではなく(そんなことはどうでもよく)、ただ単に植民地と本国イギリスとの「絆」が強調され、ロマンを感じていたのが実態だったようです。その無責任さは当然、アカデミズムからは批判されていますが、ともあれ、こうしてライオンコミックスの猥雑さがなくなり、健全化が進んでいきました。
このころ、社会階層自体にも変化がおきていました。まず、産業革命の進行にともない、1870年代以降、労働者階級の生活水準が上昇していったのです。(同時に、貧困や極貧層は残されましたが。)大半の労働者が、それまで上流階級の口にしか入らなかった砂糖やタバコまでを消費できるようになりました。余暇時間の増大にともない、何をしようか「選べる」時代になったとき、ミュージックホールは「選ばれた」のです。同時に、中産階級の人々も、それまでの「働くことが善、娯楽は悪」という考え方から「遊ぶことは罪悪ではない」という方向へシフトしていき、それまで教会などで行われていたネガティブキャンペーンも緩められて、牧師自ら「ミュージックホールや劇場に行こう」と説教する時代になります。中産階級上層部以上は主に、シェイクスピアなどの正当な劇場へ行く「劇場派」といえるのに対し、中産階級下層部と、労働者階級の上層部(いわゆる「労働貴族」)が「ミュージックホール派」と分類できる客層になってきます。このようにして、ミュージックホールは巨大娯楽産業に発展していきました。
こうした中で、クラシック音楽とは異なるイギリスの大衆民謡が数多く生まれていき、現在に残されていったのです。
こうした楽曲は後にジャズシンガーやポピュラーシンガーが歌うスタンダード曲としての側面も持って残され、「ジャズ」「ブルース」「ポピュラー音楽」の、従来あまり注目されることのない重要な源流のひとつであると言えるでしょう。
この時期のヨーロッパ大陸の「クラシック音楽」は、ワーグナーやブラームスが芸術化を推し進め、ロマン派後期~近現代へと、大仰化・複雑化・前衛化が進んでいった時期であり、ドイツ人による「美学」「芸術」というエリート的な視線のもとで、大衆音楽を相手にしなくなっていきました。
クラシック音楽家が信じていた「前衛化」という音楽の進化の方向性とは裏腹に、イギリスとアメリカの多様なポピュラー音楽の発展が起こる中で、エリート階級から見て「粗雑」で「幼稚」だったこのような音楽がなんとなく「ジャズ」「ブルース」「ポップス」という言葉で認識されていたのではないか?と考えられないでしょうか。
このようなあたりは、従来のポピュラー音楽史において奴隷の労働歌や原始的なブルースといったイメージでルーツ・ミュージックを探っているだけでは見えてこない部分かと思います。
◉世紀転換期~ ヴァラエティー・ショーへ
ロンドンで一大娯楽産業となったミュージックホールですが、徐々に出し物に対する規制が緩和されていき、1880年代後半~、アクロバット、手品・奇術、パントマイム、寸劇、レビューなどの「ヴァラエティー」へとシフトしていきつつありました。特に寸劇やコントがブルジョア階級の客層を招くことのできる健全な娯楽として大幅に取り入れられるようになります。
このころ、ミュージックホールでは火災が相次いだために、安全性や建築の観点から規制が強まったほか、新たなロンドン州議会がライセンス制を掌握して規制を強め始め、ミュージックホールは変革を迫られます。結果、ミュージックホールの出し物の多様化を当局が認める形で、同時に泥酔や深酒の抑制がなされました。これまで「酒を飲みながら歌や踊りを楽しめるところ」だったのが、「ヴァラエティを観ながら酒も嗜めるところ」へと変わっていったのです。
さらに、上流層を引きつける「レスペクタビリティ」を徹底するため、座席料金に差を設ける、演し物中の出入りや移動の禁止など、客の「観客化」が進められたほか、「宮殿」と呼ばれる豪華な建物、換気機能や安全面の改善、邪魔な柱を無くす、など、徹底した洗練化が行われ、1879年エジソンが発明した白熱電球などによってさらに舞台照明も改善されました。
この時代になると、鉄道網の発達により「旅行」「観光」がブームになっており、1900年までには主要な各地点に駅ができ、「観光コース」もうまれました。そしてロンドンの観光コースに各ヴァラエティーシアターが組み込まれるようになります。街灯によって子連れや女性客も夜の外出が安心してできるように。旅回りの一座を「待つ」時代から、演し物を観たければ「観に行ける」時代になったのでした。
こうした劇場娯楽の発展はアメリカ社会でも進行しており、イギリスのヴァラエティー・シアターの発展に対応するのが、アメリカ・ニューヨークのブロードウェイでのヴォードビルの発展になります。第一次世界大戦後、アメリカ合衆国が主導権をとる時代となり、ブロードウェイではミュージカルが発展していきました。
◉20世紀~ ミュージックホールの終焉
20世紀に入ると、逆にイギリスにアメリカ音楽が侵入してくるようになります。ラグタイムなどといった新しいジャンルがイギリスの若い世代にとって「良い音楽」となり、ミュージックホール時代のコーラスは懐メロ、古いものとなってしまいました。1923年にはラジオ(英国公営放送=BBC)が始まり、いよいよミュージックホールへ行かなくても演し物が楽しめる時代となったのです。ミュージックホールは次々とつぶれ、代わりに映画館が建っていきました。残ったホールも、ミュージカル専用の劇場や芝居専門の劇場へと変わっていきました。
こうして1920年代~30年代、完全にアメリカの世界秩序形成の時代となったのでした。
しばらくのあいだ、アメリカ音楽の流行を受ける形となったイギリス音楽ですが、そのようにして独自流行したジャズやラグタイム、ブルースなどが発達し、1960年代に世界を席巻したビートルズらに代表される、ブリティッシュ・ロックへと繋がっていくのです。