『自分は立ち直ったぞ』と思い込んで勇者様を励まそうと書いた駄文。
さて、上記の記事で、勇者様の認定を寒空の下で庭の草取りしてる私がおこなったわけですけれども。(2025/01/16再編集済み)
今後メインに書いていくだろうことを発表します。
…やはりツッコミ不在だとつまらないですね。
機能不全家族
毒親
アダルトチルドレン
精神疾患
発達障害
繊細さん(HSP気質だっけ?)
世間でこう言われていることについて話す、というより、それらが勝手に絡んでくるので話すことになると思います。
私は誰かに、そうだと評価されてはいません。
これらの傾向があるという認識で書いています。
「あなたは何です」という診断は必要としていないタイプです、私は。
ただ、
「あなたは○○ですね」
は嫌ですが、
「あなたは○○っぽいですね」
「○○な傾向がありますね」
は、すっと入ってくる人間です。
「あなたは○○だ」と断定されると拒否反応が出ます。
例えば血液型のやりとりで、几帳面だとか大雑把だとか周りの見立てで決められることに、ムッとしたことはないですか?
それがまた案外合ってるのがまたムカつくんですけども。
ちなみに私はA型です。……はい。
ちょっとこれに関して、よく思うことがあるので聞いてほしいんですけど、
「あなたは大雑把だから絶対O型でしょ」と人に直接言うのは誰得なんだろうなと。
自分で大雑把だと言うのは良いとして、人から大雑把だと言われるのは嫌だと感じませんか…?
なぜそれを言えるのかねって1人で思ってます。
すみません脱線しました。
私はこういうことが多いので悪しからず。
で、血液型に関しては検査で断定できることなので、自分の血液型が何であろうと、自分が○型なのは納得できないってことにはならないですよね?
それに対して、データに基づかず、判断基準こそ設けられているものの、最終的に医師の判断に委ねられている精神疾患などは、診断された後に、本人が「本当に自分は○○なのか」という疑問抱いて然るべきだと思うのです。
むしろ
「自分は○○だから生きづらかったのか」
と自分の生きづらさをそれで結論づけてしまうと
=「自分が生きやすくなることはない」
が成り立ってしまうわけで。
そうなると、
「自分は○○だから生きづらい」
と辿り着きますよね。
それってつらくないですか?
永遠に生きづらいのが確定してるみたいに思えますよね。
「自分は○○だったのか」
と捉えるなら、まだ救いを感じませんか?
さらに言うなら
「○○だから、△△しがちで苦労してたのか」
と自分の落とし所にできさえすれば、
(自分を納得させるのに割と苦労するけど診断名もらえば、そこをショートカットできるかもと感じる)
変えられないことにエネルギーを注ぐのをやめて、その対策にエネルギーを注ぐように方向転換できる気がしませんか?
私の実感でしかないですが
人のエネルギーの量って努力次第で上限解放できるものじゃないです。
この話は激鬱になるので、別記事にしてます。⤵
話を戻しまして、
一緒に考えてもらいたいです。
「あなたは○○です」と診断を受けました。
「自分は○○だから、△△しがちだったのか」
と捉えるとします。
A「○○だから仕方ない」と思う
B「△△するのを仕方ない」と思う
どちらで考えると楽だなと感じますか?
例えば、○○=風邪、△△=咳
で考えるとどうですか?
A「(咳が出てるけど)風邪だから仕方ない」
って、うん、まぁそう思えなくはないけどしんどくないですか。
しんどいのは風邪じゃなくて、咳なわけで、そこを無視したら、しんどいですよね。
B「(風邪だから)咳が出るのは仕方ない」
だとどうですか。
症状の度合い次第では、もはや病名はおまけに思えませんか。
軽い咳だったら、放っておくことすらありませんか?
酷い咳だったら、病院に行ったほうが良いと思います。なぜなら、薬で対処できるところはしたほうが、自分が楽になれるから。
ただ、風邪だと診断されるまでは、
このまま過ごして咳が治まるのか、あるいは酷くなるのかは、わからない。
その不安を1人で、ずっと考え込んでも、
そうすることによって病状が良くなることはありませんよね。
あったとしてそれは偶然、時間が解決してくれただけです。
だから咳が出続けてしんどい時に、
人によって判断が変わってくるわけですよね。
「すぐ病院に行こう」なのか
「風邪かもしれないし様子見しよう」なのか。
これに正誤はないですよね。
すぐに病院に行っても、
大病だとわかって落ち込むかもしれないし、
ただの風邪だとわかって安心するかもしれないし、
風邪なら行かなくてもよかったと思うかもしれない。
はたまた様子見をしていたら、
普通に直るかもしれないし、
悪化して病院に行くことになるかもしれない。
結局は人によって何を根拠に行動するかは様々で、
その症状次第で自分の行動を変えないといけないかもしれないこともあるし、そうしなくても済むこともある。
そんなところでしょうか。
あー、この線で消したとこ、世間が私に言ってくる、あるある台詞(綺麗事)を思っきし書いちゃってますね。
最悪。
キレイにまとめようとしましたね、私。
文章書いてると、ただの自己満になってきますね。
線で消したとこの文を過去の自分に読んでもらうとしたら、全く刺さらないだろうな。
むしろ距離取られただろうな。
悩みの渦中にいる人にとっては、抽象的な表現って刺さらないし、その人が自分で「それ、自分のことだ」って感じられるかどうか、そこが重要ですよね。
って、いや、自分がそうなだけなんですけど。
過去の自分に刺さるように書くというつもりで書いていたはずなのに、だんだん、今の自分が心地いい文が書けるかどうかになってますね。
あーヤダヤダ。
「今めちゃくちゃ良い表現を思いついてしまったのでは!?」と思ったのは反省の意味をこめて線で消しておきます。
これは過去から変われた証明ではあるけれど、今私がしたかったことではありませんからね。
線で消したとこの文は、過去の自分が絶対に嫌っていた言葉です。
それを悩む人にむかって、自己満足で投げようとしたことを反省しています。
悩んでいる時ほど結論を急ぎたくなるのは、もはや、必然だとすら思うのです。
「はやく、自分も楽になりたい」と。
ただ、悩んでいる人に結論だけ伝えたとしても、だいたい、
「この人は何もわかっていない」
「そうできたら苦労しない」
って思うと思うんです。
私は実際そうでした。
それで人の言葉を信じることができない自分にさえ、自己嫌悪になる。
あまりにも綺麗な悪循環に陥っていました。
今もし、あなたが
「その悪循環の最中に自分もいるかもしれない」と感じてくれているのなら、
結論(線で消したとこ)じゃなくて、
「○○だから、△△しがちで苦労してたのか」
ということを落とし所にすること
自分なりの理屈でいいから自分を納得させること
に意識を向けてみてほしいです。
その理屈が屁理屈に思えてもいいんですよ、それで。
自分こそが正しいのだと思ったっていいんです。
そう強く思うことが、
「自分を受け入れる」という行為だと思うのです。
だって思うだけなら人に影響及ぼすことないはじゃないですか。
何を思うのかは個人の自由のはずです。
これこそが「思想の自由」ではないのでしょうか。
それなら、
自分が楽になれるように考えたって良いと思えてきませんか?
なぜなら私たちの平和ボケしたこの国には、まともな憲法が定められており、
国が「思想の自由」を、「人権」として認めているのだから。
そして
私たちは皆、憲法の名のもとに、誰もが自由で平等なのだから。
「いや、あんたのようになりたかないわ」と思うなら、参考にならないと思います。
でも、多分、自己嫌悪で苦しいって人にとって、非常にわかりにくいヒント程度にはなっていると、私は自分を強く信じています。
どうか、あなたの人生を「生きづらい」って思ったままで終わりにしないでほしいのです。
「一生このままなんだ」って結論づけるにしては、まだ、あなたの時間は余っているんじゃないかと思うんです。
その意味で、
みんな頑張っています。
そこにはあなたも含まれている。
あなたは十分頑張っています。
「目的地が間違ったまま、走り続けてただけ」
なんだと思うんです。
それを受け入れること自体も、
あなたが頑張ってきたからこそつらいことだと思います。
「目的地にたどり着けないのは、違う道を走り続けていた」
からであって
「目的地はこっちに違いない」
と思い込んでいただけなんです。
頑張ってきたからこそ、
「自分の思い込みのせいで自分が苦しんでいた」なんてわかってしまったら、つらいに決まっています。
あなたがつらいのは、それほどまでに
あなたが頑張ってきたんだということの証明でしかありません。
その意味で、
今はつらくても、
過去の自分の頑張りを認めてあげることで、
あなたの過去の頑張りが、あなたを必ず前に向かせる日が必ず来ます。
だからまずは、何かに挑む心を大切にして、
死に物狂いで努力して、
時に努力の無意味さを知って、
時に己の弱さを恥じて沢山泣いて、
その後に自分の今までの頑張りを認めて立ち上がって、
「自分は誰よりも頑張ってきた。」
と、誰に言われるでもなく、
自分から思えるようになったその時こそ、
あなたが 「前を向く」準備を自分で整えられたことの証だし、
その準備ができた時こそが、
あなたが
「求めてきた真の自由を手にする時」だと、
私は信じています。
私もそうだったから。
歴史に学んだのではなく、自分が経験して学んだから、自分を強く信じられるのです。
今も、無意識に
「それは仕方ないことなんだ」
と諦めそうになることばかりです。
でも、その度に、自分に問うのです。
「それを仕方ないと決めているのは自分でしかないよね?」と。
今、私は感情を捨てない練習をしているのです。
あなたも、一緒に練習しませんか?
………え、嫌?そこでフラれるの私ww。
さて。
ちょっと、自分の過去の感情を思い出しすぎて、またもや疲れてしまいました。
今回、私は文章を書く中で、過去の自分が言って欲しいと思っていた言葉を書いていくつもりが、無意識に、自分が満足する文章を書いていることに気がつくことができたので、それが収穫だったと思っています。
自分も意図していない展開でしたが、
ケアする側の方にも何か気づきをもたらせたらいいなと
そんなことも勝手ながら思いました。
では、ちょっと、おふざけを書く余力がないのでこのままで…。
かといって書いたからには投稿したい欲があるので、投稿します笑
⚠下記は、表現することによる喜びを感じすぎて変なモードに入り、2日間、寝る間を惜しんで、考えを書き続けた末の思考です。
(私の23年の人生には、日本の教育体制、人間の在り方の押し付けにより、
表現の自由もなければ思想の自由もなかったのだと知ってしまったのだから、仕方ないですよね、発狂しても。)
✂︎---------------------------------------------------------------------
生きているのに何故か「まだ生きていたかったなぁ」などと考え、数分間、自殺を試みようともしていないのに勝手に死が迫ってくるような感覚になりました。ひたすら涙が出ました。眠ったらそのまま死ぬのではないか、というある種の恐怖体験をしました。これ過労死寸前というやつでしょうか。
いくら考えすぎるのは仕方ないということを受け入れたとしても、2日間寝ずに書き続けて、おかしな経験をして、ようやく、「寝る間を惜しんで」してはならないことだと自分のために学習しました。
ほどほどにというのが程遠くて嫌になりますね。
今はなんともなくなりました。
不安を煽るような文章を書いたことを反省しています。(以下にその文章があります)
申し訳ございません。
自分の命を守るために、睡眠は取ろうと思いました。
自分が極限状態であると気づきませんでした。
自分の戒めのために残します
以下その最中に書いたものです。
⚠⚠⚠⚠⚠⚠⚠⚠⚠⚠⚠⚠⚠⚠⚠⚠⚠
あえて書いておくんですけど、
わりと、これ、命をすり減らしてる感あるんですよね……。
私には死ねない理由があるというのに。
でも、まぁ、まだ23だし年齢的に死なないか。
精神以外は健康体だし…笑
自分の考えによって苦しみが始まった以上は自分で自分を認めてあげることでしか、楽になれなくて、そのためにもまた、思考をとめてはならないなんて、なんてつらいんでしょうね。
生まれた環境が悪かった人間は、それだけで、こんな思考にならざるを得なかった(生きるために残された選択肢だったからそうしただけ)というのに、その思考を変えることができるのも自分でしかないなんて。
これは主語がデカいと言われるのでしょうか。
全ての言葉が自分に向けられているように感じてしまうんだよ。
誰か責任とってくれよ。
たまにはそう思うことも許されていいじゃないか。
(あ、またやってますね、許されてはいけないと思ってるのは自分です。許されていいんですよ、わかってます。)
私もまだまだ、過去の自分に声かけなんてできた状態じゃないですね。
余程、感情を捨てていた頃は、
心臓が痛いとか、動悸がするとか、微熱だとか、(全て身体的検査では異常なし)
こういうのはなかったんですよね。
今みたいな命すり減らしてる感も、なかった。
生存本能のために、感情消してたんだろうな
今の方が生命体としては危うく感じる。
平均寿命下げる側なのかな。
それなら太く短く生きるしかないよな。
んなこと言って100歳まで生きてるかもね。
はい。こいつ、この発言のせいで、人のこと立ち直らせたいのか不安にさせたいのかわからん奴にに成り下がりましたね。
すみません。
私は勝手に「立ち直れた自分ハッピー」としか思っていなかったのです。
そして人様にこうやって立ち直れたぜと自慢したかっただけなのでしょう。
それが自分を肯定するとに繋がると思って。
私はまだまだ立ち直ったなんて言えた立場じゃなくて、自分に矛盾を抱えながら生きているんだなと。
まぁ、でも、それでいいのかなと。
私の中に
「芯があると感じる人への憧れ」
があるから、そう思ってしまうだけで
そういう人に憧れるのは自由だもんなと。
もはや
「自分の持ち合わせないものを持っている人」
を羨む気持ちを、手放すなんてできないよな、って。
だって羨ましいんだもん。
自分の努力で手に入らないものだもん。
そう思うことの何が悪い?
え、思うことは悪いことなんかじゃないよね
って。
じゃあ、自分は矛盾したままで良くない?って。
憧れる気持ちを
人を羨む気持ちを
手放そうだなんて無理な努力をしてたから
自分は苦しかったんじゃないの?って。
『無駄な』努力じゃなくて
『無理な』努力はつらいだけ。
人に対して、
羨ましいとか、
憧れるとか、
そういう風に感じている自分を否定し続けていたから、
つらくなったんだろうな。と。
事後ならわかるのですがね。
自分はそういう生き方なのでしょう。
その時にわからないのはもはや仕方ないこと。
でも気づいた時に、
自分こういうとこあるな
次から気をつけよう
そういう人間なんだなと。
こんな人類ウケしない具体例でしかない人間
がもたらすものも
抽象化すると誰にでも言えそうなことになる
のが不思議でなりませんね。
気味が悪いとすら思います。
だから、
綺麗事のように思える言葉が蔓延している
のだと
なんだか腑に落ちる自分がいます。
如何でしょうか?
1つ目の記事に書いた
「こんな人間でも生きてるとかマジかw」
と思ってもらえましたかね。
なんだか、自分では、面白いほどいい例になっていると思うのですが、
あなたはどのように感じたでしょうか。
誰かに何か気づきをもたらせたのなら、嬉しいばかりです。
睡眠とったら、元に戻りました笑
ではでは👋✨