chi_aiueo

毎日ご機嫌

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私は不満でいっぱいなのだ

言葉を学ぶと得られる視点と失われる視点がある。 高校生の頃、英語の授業の中でIt is originated from Germanyと言うフレーズの音読を任された男の子がいた。急に当てられた彼は、Germanyがどこかの地名と言うことがわかったのだが、どこだかわからずこう答えた Ge.... Ja.... Jamaica? 私は今、Germanyと言うアルファベットを逐一追わなくても、その枠を見ただけでGermanyと答えられる。それは、たとえ正しかったとしてもGer

    • 家に閉じこもったままでもご機嫌でいるのに大切な3つのこと

      本当は週末の更新を目指していたのですが、楽しいことを始めてしまい、遅れてしまいました。 不要の出社を控えて在宅勤務をするようにとの連絡がきてから6週間が経とうとしています。 私の周りで感染が確認されたという事実は今の所ありません。今までも、在宅勤務をすることは多かったかと思いますが、それでも多くて週に2回。1週間丸々外にでないようにするなんていうことは経験をしたことがありません。 最初は久しぶりの春休みくらいの感覚でドキドキしながら突入したお家生活ですが、外に出ないとい

      • 毎日noteを書いて気づいた書くことと漬物の関係

        早いものでnoteの投稿をはじめてから1か月弱が経とうとしています。 夜行性なので、日付をまたいで投稿ということもありましたが、基本的には3週間ほど毎日何かを綴っておりました。しかし、ここ2日間ほどお休みをしておりました。 今日はそのお休みの理由と、その間に考えていたことをお話ししようと思います。 毎日書いたら頭の中が空焚きになった明確な理由でnoteを始めたのではありませんが、書き続けたらどんなことを思うのだろうと不思議に思い、実験的に毎日書いてみようと思いました。

        • 子どもとおとなの境はいつ?

          気まぐれに訪れる、本棚を整理したい気分。お酒を片手に手放す本を決めて、その時自分が良いと思ったルールで並べていく。作者ごとにまとめたり、出版年ごとに並べたり、大きさを揃えてみたり。 手に取った本からペラペラとめくってページを読み進める。これだから全く進まず夜になってしまう。 何冊かある長田弘の詩集でこんな一節が目に留まる。 確かにきみは、気がついてみたらもうおとなになっていた。ということは、気がついてみたらもうきみはもう子どもではなくなっていた、と言うことだ。それじゃ、

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        私は不満でいっぱいなのだ

          読み手がいてもいなくても

          今日、出願していた大学から合格の通知がきた。これで晴れて4月より、また学生にマスを戻す。卒業をした時は、もう二度と学生なんてしたくないと思ったが、数年で人は変わったしまうものだ。 春からは、通信の大学で哲学を勉強する。言語哲学とか、その辺りに向かうことができればと考えているが、数年後にどうなっているかなど予測ができない。 合格にしろ不合格にしろ通知がきたら、noteに書こうと思っていた。午前中に簡易書留を受け取ってからパソコンを開く昼下がり。 カタカタとタイピングをしな

          読み手がいてもいなくても

          27ヶ国語でおめでとう

          桜が咲き、卒業の季節がやってきた。 昨日、日比谷でタイ料理を食べてたら、大学の卒業式帰りとおもわしき男性二人がガパオを食べながら、俺たちもうこれで会うの最後かもなと笑っていた。 大人になると、明確にさよならを言い合える機会が少なくなる。気づかぬうちにやってきて、知らないうちにいなくなっている。 おめでとう、さようなら、またいつか。 友達にこんなものを紹介してもらった。 27ヶ国語で卒業メッセージを送るのは東京外大毎年の行事らしい。メジャーな言語だけではないから、他の

          27ヶ国語でおめでとう

          春がきたら、雨を待って

          小学生の頃、春に降る雨が好きだった。 山に色彩が戻り始め、吸い込む息が生暖かくなってきた頃、それは突然やってくる。 春休みが終わりに近づいた雨の日には、遊びにいけないと友達に電話をして、ぼんやりこたつに入り浸りながら窓の外を眺める。 時々軒下に出ては、シャボン玉をふかす。ある一点を越えると、パチンと割れて雨に溶ける。 そんな気だるい時間が好きだった。誰もいない秘密の昼下がり。 中学2年生に上がって、最初の授業は国語だった。 折り目の付いてない教科書の1ページ目には

          春がきたら、雨を待って

          私の言葉はどこに漂う

          先日友人と水タバコを吸いながら、物語の書き方の話をした。彼は設定と文脈をしっかりと作り込んでキャラクターがエネルギーにしたがって動くのを描写するように物語を綴るらしい。 頭の中に、海辺に立つ男の人を思い浮かべる。 その彼は勝手に動いてくれない。動いてくれるのは、私の視点を彼の目に移植した時だ。 私が彼なら・・・ 私はあの時こうしたから・・・ 押し寄せる「私」の波に、彼は居場所を無くしてしまう。想像力が足りないのだろうか。私は小説を書くことができない。 何かを買おう

          私の言葉はどこに漂う

          点と線が意味になる時

          文字に馴染みが出てくると、たとえそこが旅先であったとしても、なんとなく目のより所ができて心臓が飛び出そうになるどきどき感を抑えられる。 例えばオーストリアを訪れる時。ドイツ語はわからないが、ラテンアルファベットには馴染みがある。読めそうで読めない、夢の中でどんなに足をばたつかせても前に進まない時のようなふわついた感じがする。それはそれで心地が良い。 もう20年以上も「文字」を習得する経験をしていない。小学校に上がるくらいの時に、アルファベットとひらがなをそれぞれひたすら紙

          点と線が意味になる時

          明日の空が青いことを願って 映画「娘は戦場で生まれた(For Sama)」

          1991年1月17日、湾岸戦争が始まった。世界中のテレビで多国籍軍の爆撃映像で溢れかえる中、私は生まれた。戦場はいつでも世界中のどこかに存在するけれど、それが自分の物語の一部になったことは一度もない。 それから1週間後、ワアド・アルカティーブはシリアに生まれた。戦線と日常の隙間がうんと薄い距離で毎日を過ごしてきたのだろう。 2009年、私も彼女も大学に入学した。そして、2011年、私がバイトをして旅行資金を貯めるのに躍起になる間に、彼女はジャーナリストになった。シリアの内

          明日の空が青いことを願って 映画「娘は戦場で生まれた(For Sama)」

          自分の居場所の形-映画「ジョン・F・ドノヴァンの生と死」-

          映画を見た。グザヴィエ・ドランの最新作。「The Death & Life of John F. Donovan ジョン・F・ドノヴァンの死と生」。死んでしまった人気スターと少年の秘密の文通から二人の交差した・しなかった人生を描く。 見た後に理路整然とストーリーを説明できるものよりも、断片が角砂糖のように残っていて、くるくると思い出したりつなげたりひっぺがしたりしながら脳みそに溶かし込む楽しみがある映画が好きだ。グザヴィエ・ドランの映画はどれもそんな映画だと思う。そして

          自分の居場所の形-映画「ジョン・F・ドノヴァンの生と死」-

          緑の星を待って

          待つということはポジティブな意味を持つのか、ネガティブな意味を持つのか。言葉尻だけとるとニュートラルだが、自分が主語となった瞬間、ネガティブな意味を持つことが多いのではないか。スマホが生活に馴染むようになって、しゅわしゅわと生じる日常の隙間時間を潰すことが簡単になった。私たちは待つを消したがっているのか。 スペイン語で待つはesperar。これにはもう一つ望むと言う意味がある。waitとhopeが一緒になったような動詞だ。日本語の「待」も似たような使われ方をする。期待とか、

          緑の星を待って

          言境をまたぐとき

          日本で生まれ育つと、国と言葉と言うものが一対の関係に思える。しかし、国境が言葉の境と等しい国は珍しいのではないか。「言境」は、もちろん地図に引ける地理単位にあるし、図書館の中にもある。個人の中にもあるだろう。生まれたてのアナーキ状態から、複数の言語が脳みその中に住み着き出してそれぞれの領地を主張する。長い間使われない言葉は、そのほかの言葉に言境を侵略されて、覇権を失い、過去の遺跡のようになってしまう。国境よりも言境を意識した方が面白いものが見えてくるのかもしれない。 スイス

          言境をまたぐとき

          私の眼鏡は何色眼鏡

          エクソフォニーという英語がある。母語以外の言葉を使った詩や文学の創作活動の際に使われる。多和田葉子のエッセーのタイトルとして知っている方もいるのではないか。 この単語はexophonyと綴り、ex-phonyの2つの語彙から構成される。exoは外側を意味する接頭語。phonyはシンフォニーなどから推察できるように音を意味する接尾語だ。この言葉を初めて見たとき、驚きと諦めを混ぜて悲しみの方向に進んだような気持になった。綴りをexophoneyと勘違いしたからである。phone

          私の眼鏡は何色眼鏡

          世界は色で溢れている

          人との出会いは不思議なものだと思う。毎日顔を合わせているのに挨拶する仲にしかならない人もいれば、数少ない出会いが生涯忘れられないものになる人もいる。 スイスで学生をしていた頃からもう6年が経った。当時はよく使っていたFacebookも開かなくなってしまい、未だに連絡を取る当時の仲間は数えるほどしかいない。 ウザルとは友達のホームパーティで知り合った。イスラマバード出身の学生で、当時は博士課程に所属していた。初めて会ったときは大勢の中の一人だったし、その日はたくさんワインを

          世界は色で溢れている

          台北の彼女

          今から10年以上前の話だが、初めての海外の行き先は台湾だった。今、台湾にいくとなれば、現地の友人に連絡をしてどこかで会う約束をしたり、ゆかりの作家の本を注文して旅の途中で読むことを期待したりするだろう。 当時は台湾に行くことにそこまで興奮を覚えていなかったから、半分寝落ちに近い状態で台湾についての講義を聞き、特に何も学ばないまま現地に赴いたと思う。本当に失礼なやつだ。 台北を訪れて一番驚いたことは、「国旗」がいたるところに飾られていることだった。道路の街路樹の間に、ビルの

          台北の彼女