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台北の彼女

今から10年以上前の話だが、初めての海外の行き先は台湾だった。今、台湾にいくとなれば、現地の友人に連絡をしてどこかで会う約束をしたり、ゆかりの作家の本を注文して旅の途中で読むことを期待したりするだろう。

当時は台湾に行くことにそこまで興奮を覚えていなかったから、半分寝落ちに近い状態で台湾についての講義を聞き、特に何も学ばないまま現地に赴いたと思う。本当に失礼なやつだ。

台北を訪れて一番驚いたことは、「国旗」がいたるところに飾られていることだった。道路の街路樹の間に、ビルの軒先きに。私が日本の道端で国旗を見るのは祝日だけだったし、普段は誰かのTシャツにプリントされた星条旗の方がよく見るのじゃないかと言うレベルだったから、何かの祭典中に台北を訪れたのだと思った。ガイドさんに聞くと、いつでもこんな感じらしかった。

大人になった今でもそうなのだが、私は国旗をどう振ったら良いのかわからない。おそらく、小さい頃に一緒に住んでいた、曽祖父と祖父から耳が痛くなるほど聞かされていた戦争の話が原因だろう。曽祖父は第二次世界大戦中、航空写真を取るためのカメラを作っていた技術者だった。彼は国とか、思想とか得体のしれないものを盲信してはいけないよと遠くを見ながら煙管をふかして私に話した。祖父は終戦を迎える時、小学校に上がる前くらいの年齢だった。彼を可愛がってくれた年の離れた兄弟が戦死し、その怒りは大戦の「敵国」に向けられていたと思う。当時一緒にテレビを見ていて、アメリカや中国が話題に上がると日本がいかに優れているかを語り出した。曽祖父と祖父は仲が悪く、私の記憶している限り会話をしていたことはない。そんな二人の思いの両方を同時に受けざるを得なかった私は、愛国心とか国が象徴するもの、とりわけ国旗と言うシンボルと自分の距離感がいまだにわからないでいる。

そんなことを反芻しながら、ここには「国旗」が多いなあと窓の外をぼんやり見てバスに揺られていた。

初めての海外だったのに、残念ながら台湾で何をしたかはあまり何も覚えていない。大人になってから改めて一人でぶらついた時の方が時系列的にも、面白さ的にも色々覚えている。旅に出るときは、頭も準備していかないといけない。

そんな思い出の薄い初海外で、記憶に鮮明に残っていることがある。台北2日目の午後、市内の高校との交流会に参加した。同じ二年生のクラスに何班かに分かれてお邪魔し、英語でディスカッションをするというものだった。将来の夢とか、お互いの国の印象についてとか、そんなことを話した気がする。当時の英語力なんて知れてるが、それでもお互いの第二言語で必死にコミュニケーションをとった。

私の班に、アリスという女の子がいた。小柄で黒髪のストレートの女の子で、笑うとえくぼが可愛いかった。ディスカッションも終盤に近づき、先生が最後のお題を投げかけた。テーマは「自分の国が相手の国に望むこと」。私自身がなんと回答したかは忘れてしまったが、そのアリスが呟いた一言は今でも鮮明に覚えている。

Let Taiwan join in the United Nation.

台湾を国連に参加させてください。

日本が訴えたところでそれが実現できるかはわからない。そんなことはどうでもいいのだ。当時16才だった私は、彼女がいかに台湾という「国」のことを自分ごととして捉えているかということが驚きだった。私たちは、いつも国や行政がこれをしてくれたらという。税金を軽減して欲しいとか、補助を厚くして欲しいとか。その行為の行き先が、自分にあるからそう思うのだ。彼女にとって、国際社会が台湾に向けた行為は、自分ごととして跳ね返ってくる。良いとか悪いとかそういう問題ではなく、同い年の彼女が自分の感覚をより大きなものに投影できるということが衝撃だったのだ。

最近の混沌のなか、台湾がWHOに参画していないという記事をよく見かけるようになった。自分の頭の中のナショナリティとアイデンティティの交差点は未だによくわからない。自分の成長のなさに少し戸惑いながら、台北の彼女が前を向いて話をする横顔を時々思い出す。



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