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読み手がいてもいなくても

今日、出願していた大学から合格の通知がきた。これで晴れて4月より、また学生にマスを戻す。卒業をした時は、もう二度と学生なんてしたくないと思ったが、数年で人は変わったしまうものだ。

春からは、通信の大学で哲学を勉強する。言語哲学とか、その辺りに向かうことができればと考えているが、数年後にどうなっているかなど予測ができない。

合格にしろ不合格にしろ通知がきたら、noteに書こうと思っていた。午前中に簡易書留を受け取ってからパソコンを開く昼下がり。

カタカタとタイピングをしながら数行振り返って、打たれたての文字に目をうつす。


もうすっかり春の陽気となりました

今日は嬉しい便りが届きましたのでご報告です


普段、だである調で文章を書く。そんな自分の文章がですます調になっている。いつもよりも丁寧にストーリーを差し込みながら、目的地がわかりやすい文字の流れ。

なぜ、無意識に書き方の調子を変えてしまったのか。

目的が報告であり、インターネットの向こうの誰かに向けて書いたことは明確だ。それは届くことを望まれて生まれてきた文章である。

noteを毎日更新して3週間弱が経った。読み返してみると、最初の数日はですます調で書いていたことに気づく。

その数日、文書を書くのにものすごく苦労した覚えがある。書いては消して、意味を間違えていないか検索をして構成をして。

4日目あたりからもう少し、気ままに文字を綴りたいなと思いつらつらと気が向くままに指を走らせていった。そうした頃から自然とだである調に変わっていった。意味は飛び散り、脈絡を見出さない。

この差は何なのだろうか。

私は自分の思うことをアクティブに発信をしてきた人間ではない。気の合う仲間にこそっと、時々あった時にポロポロと話をする方がずっとも楽し胃と思ってきた。だから、不特定多数の人の目に触れるところに晒すというほぼ初めての経験を前に、読まれることに対して意識を向けていたのは間違いない。

そういう意識も大切だと思う。大切な情報や人の心を動かすストーリーは読まれて初めて意味を為す。

私は一貫して道端の小石のような文章を書きたいと思う。小石は主張せず、そこにちょこんとあるだけだ。たまに誰かが見つけて蹴られてしまう。蹴ったからと言ってその人の何かが変わるわけでもない。

だから、読まれることよりも、書くことを大切にしていきたい。

とはいえ、いただくコメントやハートは心を朗らかにするし、自分のことを知らない人の貴重な数秒の使い方を自分が変えてしまったのだという事実にはっとさせられる。


ただ蹴るだけの小石のような文章に目を通していただき、ありがとうございました。

写真:大英博物館のロゼッタストーン。なんのために書かれたのか。誰かに読まれたかったのか。

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