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緑の星を待って

待つということはポジティブな意味を持つのか、ネガティブな意味を持つのか。言葉尻だけとるとニュートラルだが、自分が主語となった瞬間、ネガティブな意味を持つことが多いのではないか。スマホが生活に馴染むようになって、しゅわしゅわと生じる日常の隙間時間を潰すことが簡単になった。私たちは待つを消したがっているのか。

スペイン語で待つはesperar。これにはもう一つ望むと言う意味がある。waitとhopeが一緒になったような動詞だ。日本語の「待」も似たような使われ方をする。期待とか、待望とか。しかしesperoがひらけた空に向かって紙飛行機を投げる感覚を彷彿とさせるのに対して、それら日本語の熟語はブーメランのようだ。何かが自分にやってくるのを望んでいる。

世界のほとんどの言葉は文化の発展とともに様々な人が著者になりながら編まれてきた。言葉を扱うヒトをホモ・ロクエンスというヒューマニティの定義の仕方があるように、人間は言語を操れる存在である。レヴィ=ストロースはその研究の中で、自然と文化の線を引くのは言語だとした。

人工言語と言うものがある。最も有名なものはザメンホフ博士によって考案されたエスペラント語であろう。19世紀の終わりに当時ロシア領でったポーランドでユダヤ人として生を受けたザメンホフは、周りにロシア語、ポーランド語、ドイツ語、イディッシュ語の言境が引かれて人々が分断されていることが争いの種になっていると考え、その違いを統合する言葉を作ろうとした。それぞれの第一言語を学んだ上で、第二言語として誰もが学びやすく、シンプルな言葉として人工的に作られたのがエスペラント語だ(誰もがと言うのは少し語弊があり、ヨーロッパ系の言語を母語として話す人に限られる)。現在、世界に数十万のエスペランティストがおり、両親がエスペランティストとして生まれた子供達の中にはエスペラント語を母語として操る人もいるらしい。日本だと、宮沢賢治の作品の中にエスペラント語が登場することで馴染みがあるかもしれない。

Esperantoと言うのは「希望する人」を意味する。世界が違いではなく、同じ言葉のもとに人々が繋がることを願ったザメンホフ博士そのもの理想が映し出される美しい名前だ。エスペラント語の「待つ」はatendiに相当する。これはフランス語のattendreからきたものと想定される。対して「希望する」はesperiであり、これはスペイン語やポルトガル語のesperarからきている。元の言葉には含まれる待つと言う意味はエスペラント語のesperiでは失われている。

Esperantoという響を聞くと、夜空の星を待つような、そんな人のイメージが湧いてくる。彼はその到来を待つ、希望を胸に抱きながら。エスペランティストは世界中に散らばっているので、普通に生活をしていたら発見できることは稀であろう。

言語が世界に撒き散らされたイメージはこの物語が最も美しく、きらめきを秘めている。

散りばめられた言葉同士が共鳴して、会話の受け答えによって繋がり、地図の上に星座を映し出す。エスペラント語のシンボルは緑の星だ。彼らはそれを待っている。

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