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点と線が意味になる時

文字に馴染みが出てくると、たとえそこが旅先であったとしても、なんとなく目のより所ができて心臓が飛び出そうになるどきどき感を抑えられる。

例えばオーストリアを訪れる時。ドイツ語はわからないが、ラテンアルファベットには馴染みがある。読めそうで読めない、夢の中でどんなに足をばたつかせても前に進まない時のようなふわついた感じがする。それはそれで心地が良い。

もう20年以上も「文字」を習得する経験をしていない。小学校に上がるくらいの時に、アルファベットとひらがなをそれぞれひたすら紙に書きつづらされた。音と形が頭の中で結びついていく。小さい子の前に本を広げると、ひらがなを声にしてつまみ読みをしだす。次第に声に出さなくても形が連なり、音を飛び越えて意味に繋がる。文字を知るまえ、自分には世界がどのように見えていたのだろうか。

新しい言語を学んだ経験もあるが、文字は文字として頭の中から引っ張り出せた。ビーとして覚えていたものの音がベーに代わり、ワックスで髪の毛を立てたりヒールを履くように、ちょこんとアクセントがくっつくときもある。それでも「これは読めるものだ」という感覚を惑わせることはなかった。

ひょんなことからペルシャ語の辞典をいただいた。イラン映画を何本か見ることがあり、音が美しい言葉だなと漏らしたのを友達が聞いていたからだ。日本に生きているとペルシャ語に触れることはほとんどない。私自身もペルシャ語圏に行けていない。イランはいつもバケットリストの真ん中から少し下くらいの位置にいる。

日焼けして黄ばんだページを開くと、薬箱のような匂いがした。思わぬところに線や付箋が引かれている。本はいろんなものを吐き出し、吸収するようだ。自分で持っている間は気づかないかもしれない。私の本には何が染み付いているだろうか。

私にはペルシャ語の知識が全くない。唯一知ってるのは、イスラム圏共通の挨拶、サラーム。アラビア語とどのくらい違うのかすら検討がつかない。

ページに書いてあるペルシャ語は私には読めない。意味がわからないとか、知らないとか以前に、意味をなすものだということに頭がついていかない。点と線が美しい秩序を持って流れているようにしか見えない。

もしかしたら、幼い頃街の看板を見上げていた私はこんな感じだったのかもしれない。

これからゆっくりと時間をかけて、点と線が意味になる過程を楽しんでいこうとおもう。




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