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明日の空が青いことを願って 映画「娘は戦場で生まれた(For Sama)」

1991年1月17日、湾岸戦争が始まった。世界中のテレビで多国籍軍の爆撃映像で溢れかえる中、私は生まれた。戦場はいつでも世界中のどこかに存在するけれど、それが自分の物語の一部になったことは一度もない。

それから1週間後、ワアド・アルカティーブはシリアに生まれた。戦線と日常の隙間がうんと薄い距離で毎日を過ごしてきたのだろう。

2009年、私も彼女も大学に入学した。そして、2011年、私がバイトをして旅行資金を貯めるのに躍起になる間に、彼女はジャーナリストになった。シリアの内戦を世界に伝えるために。

映画「娘は戦場で生まれた(For Sama)
彼女がシリア反体制派の中心地アレッポで撮影した映像と2015年に生まれた彼女の長女に語りかけるモノローグが重なるドキュメンタリー。

耳をつんざくような爆音、空気をおおう砂煙や叫び声、目を覆いたくなるおびただしい遺体や血。

圧倒的な映像は私から思考をする前に感じることを奪った。だから、この映画のほとんどの部分に対して、私は感想を書けない。無責任だとも感じるが、感覚の限界だった。

ただ、この映画に対して唯一、私が「感じる」ことができたのは、彼女の強さだ。

私は、シリアの人々の心の中で何が起きていたのかがわからない。それは、知識で追えるところを知らないという以上に、故郷のために戦うとか、イデオロギーのために命を顧みらないとか、彼らが戦う理由と心をともにしていないと言う意味だ。だから、彼女たちがそこに包囲されたアレッポに残ったこと、そこで娘を育てようとしたことに対してどんな意見を述べる権利もないと思う。

私が感じた強さは、どんな決断をしたかではなく、「それ」を言葉にしたことである。

砲撃により息子を亡くした女性は、カメラに向かって何をしてるの、全部撮ってよと泣きわめく。

包囲されたアレッポから退去する日、彼女の親友はもう何も感じられないと娘の肩に顔を埋める。

壮絶な経験を前に人は言葉を失う。自分を守るために情報を処理すること拒否する。生涯かけても癒える傷ではない。それでも彼女は、サマのために、何万という仲間のために、未来のために、自身の体験を言葉にし切ったのだ。

彼女と私は同い年で、ほとんど同じ日数だけ地球を歩いてきた。その1日1日でどんなものを見てきたのだろうと心を巡らせる。

サマはアラビア語で空の意味。彼女は娘の名付けに関して、

戦闘機もない、爆弾もない、空。鳥が飛ぶ

とモノローグで語る。



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