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子どもとおとなの境はいつ?

気まぐれに訪れる、本棚を整理したい気分。お酒を片手に手放す本を決めて、その時自分が良いと思ったルールで並べていく。作者ごとにまとめたり、出版年ごとに並べたり、大きさを揃えてみたり。

手に取った本からペラペラとめくってページを読み進める。これだから全く進まず夜になってしまう。

何冊かある長田弘の詩集でこんな一節が目に留まる。

確かにきみは、気がついてみたらもうおとなになっていた。ということは、気がついてみたらもうきみはもう子どもではなくなっていた、と言うことだ。それじゃ、いったいいつ、きみは子どもじゃなくなっていたんだろう。

子どもの頃のことは数が少ないけれども、鮮明に覚えている。川に入って蟹を捕まえたこととか、用水路に落ちて血まみれになって帰ったことか、初めて葬式で人の骨をみたこととか。

小学生だったあの頃、早く大人になりたいと思っていた。大人になって、好きな服をきて、好きなところへ旅をして、好きなものを食べる。大人は宿題をしなくていいし、夜更かしをしても良いし、背が高いから遠くまで見える。早く大人になりたかった。早く自由になりたかった。

それからしばらく時計を回して、中学や高校時代に思いを巡らせてみても、私はまだまだ子供だった。あの頃、テストで取った点数が良い時は人に見せてはいけなくて、悪い時は見せても良いということを学んだ。それから、人にはそれぞれ「身の程」というものがあり、それに応じてやりたいことを主張しないといけないということも学んだ。私は早く大人になりたかった。大人になって、この街を出たかった。やること為すことが全て家族に伝わらないくらいの私のことを誰も知らない大きな街に出て、早く自由になりたかった。

大学にはいって、成人式を迎えたけれど、私はまだまだ子どもだった。たくさんの人に会って、たくさんの知らないことを知って、世界がどんどん面白いと思えるようになった。私は早く大人になりたかった。大人になって、今知っていることをたくさん活かしてもっと自由に生きたいと思った。

大人とはなんだろう。お酒が飲めることこと、自分でお金を稼いでること、支える家族がいること。私にとって大人とは、自由な人のことだった。自分に自由な時間とお金を持って、好きに生きれる人のことを幼い頃の私は「大人」と呼んでいた。だから大人になりたかったし、大人に憧れた。

世の中的にみたら、私は大人の年なのだろう。同い年の知り合いは結婚して家族をもったり、会社を設立したりしている。世の中的な大人のチェックポイントではないか。大人と聞かれると、グレーのスーツを着て顔を歪ませながらマイクの前で言い訳をする人を思い出す。私は大人になんてなりたくない、と思う。大人はいろんなものを背負いこみすぎている。悲しいのに笑顔を作らなければならないし、眠くてもひるねをすることができない。

不思議なものだ。自由になりたいから大人になりたいと思っていた私が、自由じゃないから大人なんてうんざりだと思うようになっている。それは、成長がどこかの点で老化になってしまうのと似ているかもしれない。

そう考えると、いつ大人になったんだろうと考えるのはあまり大切なことではないのかもしれない。大切なのは、私が自由を望んで、そのために今何をしようかと心をウキウキさせて、少しだけ手と足を動かしてジタバタしてみることかもしれない。

こんなことを考えていて、本棚の整理は終わらない。

写真:キューバのとある街。アイスクリームを食べながら町歩きをして、疲れたら海で本を読む。こういう自由もある。子供にはできない。


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