自分の居場所の形-映画「ジョン・F・ドノヴァンの生と死」-
映画を見た。グザヴィエ・ドランの最新作。「The Death & Life of John F. Donovan ジョン・F・ドノヴァンの死と生」。死んでしまった人気スターと少年の秘密の文通から二人の交差した・しなかった人生を描く。
見た後に理路整然とストーリーを説明できるものよりも、断片が角砂糖のように残っていて、くるくると思い出したりつなげたりひっぺがしたりしながら脳みそに溶かし込む楽しみがある映画が好きだ。グザヴィエ・ドランの映画はどれもそんな映画だと思う。そしてこの映画も例外ではない。
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ジョンと少年(ルーパー)は100通以上の手紙をやりとりしている。そのやりとりを通して二人の仲が深まるという感じはしない。むしろ、本来ならば誰も知らないはずの自分の人生を、「僕」の視点編集して相手に送りつけているように感じる。大切なのは宛先があることと、内容はどうであれ返事が返ってくることで誰かに自分の声が聞かれているという事実が大切なような気がする。世界と彼らを繋ぐ点を担っていたのだろう。
家族が集まる夕食の場で、ジョンは「ジョナサンって呼ぶな」と家族に怒鳴りつける。ルーパーとの文通という「点」以外で本当の自分と世界とを繋ぎたくなかったのかもしれない。それは点を破裂させて不完全な自分を自分を含めた「人」が知ってしまうことを意味する。
ルーパーに宛てた最後の手紙でジョンはこういう。
Please live before lie.
嘘をつく前に、生きてくれ
初めてジョンが「点」ではなく、ルーパーという個人へ宛てた言葉だ。
タイトルは、「生と死」ではなく「死と生」。よく使い古された言葉を少し変えるだけで意識がそこに向いてしまうから不思議である。ジョンは過去をひた隠しにし嘘をつき、死んだように生きていた。そして人と向き合って生ようと思った、その直後に死んでしまう。
この映画の主人公二人を繋ぐ文通。私は、幼い頃文通をしていたことがあるが、どうも苦手で長続きしなかった。久々の手紙にはたくさんの情報が並べられていたが、どれも自分には無関係に思えた。私個人に宛てられていないという感覚の方が正しいかもしれない。手紙をくれる相手とは離れていることが多い。その人のことをよく知らないから興味を共有しているとも限らないし、悩みを打ち明けられても無責任に返答などできないと思った。こんにちは、手紙ありがとう。から先がかけず、書いては便箋を捨ててを繰り返して、とうとう投函されなかった手紙がたくさんある。
文通は、ただ自分の声を文字として聞かせること、そしてそれが世界の中でその人の居場所を形作ると言う効用があるのかもしれない。誰かにわかりやすくとか、伝えるという思いを持ちすぎてしまうとどうしても脚色が生まれて歪みが生じ、それが自分ごとであるほど心をがたつかせる。
そう考えると私がnoteに書くのも、文通のようなものかもしれない。放った瓶詰めは海に浮かび、私の知らない遠くの誰かの庭へ流れ着く。理解されなくても、共感されなくても、ただ雑音としてでもいいから、自分の声が誰かのアンテナに引っかかるというのは救われる気分になる。救うという漢字は、掬う(すくう)からきている。この感覚は水を掬って形が作られるように、世界から掬われて自分の形ができるというものなのかもしれない。
文通でも、SNSでも、路上パフォーマンスでも。こんなとりとめのない言葉たちを読んでいてくれる、あなたがいることが、とろっとした世界から毎日私を掬い上げる。