【どうする家康・家臣列伝1】 「三河武士の鑑」と呼ばれた鳥居彦右衛門の真実
最期の姿を伝える「血天井」
大学生のときのことですので、今から40年近く前の話です。京都の養源院(東山区)で、「血天井」を拝観しました。
血天井とは、ご存じの方も多いと思いますが、戦国時代に武将らが自刃した際の血痕が残る床板を、供養のために寺の天井に張ったものです。養源院のそれは、関ヶ原合戦の前哨戦である伏見城の戦いの折、守将である徳川家の鳥居彦右衛門元忠らが自刃した際のものでした。
板には手のひらや足の裏のかたちの血痕がありありと残り、中には床に倒れ込んだ横顔ではないかと思えるものもあって、見ていて背筋が寒くなったことを覚えています。単なる怖さというより、戦いの末に最期を遂げた戦国の人々のリアルな姿を目にしたような衝撃でした。
大学生当時の私は、「伏見城の戦い」と「鳥居元忠」と聞いて、名前は知っていても具体的なイメージまでは持っていません。その後、テレビドラマ『関ヶ原』(1981年放送)のDVDで、芦田伸介さん演じる鳥居彦右衛門と、森繁久彌さん演じる徳川家康が、伏見城で別れの盃を交わすシーンを見て、「ああ、このときのことだったのだな」と理解し、足を引きずって去っていく芦田伸介さんの姿が、私の中での彦右衛門のイメージとなりました。
「三河武士の鑑」の真実とは
2023年の今年、大河ドラマ『どうする家康』が放送中ということもあり、和樂webで、家康の家臣の中でも「四天王」と呼ばれるような有名人ではなく、脇を固めた者たちを一人ずつ取り上げて記事にすることにしました。そこで真っ先に私が取り上げたのが、家康の幼少期から側で仕えた鳥居彦右衛門元忠です。
後年、「三河武士の鑑」と呼ばれた彦右衛門ですから、参考にすべき資料は少なくありませんが、今回は主に大久保忠教『現代語訳 三河物語』や、平山優『天正壬午の乱』 他を参照しました。彦右衛門は3歳年上の側近として、家康の初陣以来、常に戦場で傍らにいただけでなく、旗本先手役の一人として、いざというときには機動戦での活躍も家康から期待されていた、歴戦の将です。
面白いのは、天正10年(1582)の天正壬午の乱では、甲斐(山梨県)の黒駒の戦いで、計略をもって寡兵で北条氏の大軍を破り、家康の甲斐・信濃(長野県)獲得に大きく貢献した彦右衛門が、『三河物語』が記す天正13年(1585)の第一次上田合戦では、逆に寡兵の真田氏に翻弄され、顔色を失い、震え上がっている姿が記されている点です。
果たしてどちらが鳥居彦右衛門の真実なのか、気になった方は和樂webの記事「徳川家康に尽くした鳥居元忠。波乱の人生を解説」をご一読ください。
歴史に関心を抱くきっかけとして
記事はいかがでしたでしょうか。
『三河物語』は、大久保忠教の考える三河武士の価値観が色濃く投影されている書ですが、それは必ずしも三河以来の徳川家臣すべてに共通する基準ではないのかもしれません。しかし、そもそも『三河物語』は、大久保家子孫の心がけのために記した、本来は門外不出の読み物なのですから、「事実と異なる」、「大久保家へのひいきが過ぎる」といった評価は、本書の趣意を汲んだものとはいえないでしょう。大久保忠教が見て感じた、三河武士のあるべき姿なのです。
事実と異なるといえば、大河ドラマもそうです。あくまでもエンターテインメントを主眼とする「ドラマ」なのですから、すべてが史実通りのはずがありません。史料と見比べて批判してもあまり意味はなく、むしろあれこれ言いながら、気軽に演出を楽しむべきものだろうと私は思っています。もちろん時代考証も入っていますから、ドラマを元に当時のおよそのイメージを抱くことはできるでしょう。歴史に関心を抱くきっかけとして、活用すればよいのです。
『どうする家康』では、鳥居彦右衛門を音尾琢真さんが演じています。晩年の重厚な彦右衛門を演じた、ドラマ『関ヶ原』の芦田伸介さんとはまったく異なる、快活で泥臭く、ちょっとコミカルな若い彦右衛門ですが、今後どう変化し、その最期はどのように描かれるのか、注目したいと思います。