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血天井のはなし

ー京都・養源院ー

いつかは京都に行きたいと思っていた。
血天井のことを知って、その思いはより強くなった。

1.血天井とは

血天井で有名なのは、伏見城の戦いだと思う。
徳川家康が上杉討伐に向かっている間、家康に命じられた鳥居元忠をはじめ1000名ほどの家臣が伏見城の留守を守っていた。

そこに石田三成の40000もの兵が、伏見城を取り囲む。
必死に奮闘しながら10日間、ついに鳥居元忠は自害した。

伏見城の戦いの後、家康はすぐには伏見城の元忠たちを弔えなかった。
伏見城の戦いが起こったのは1600年7月~8月。
そう、このあと天下分け目の一戦・関ヶ原の戦いがあるのだ。

元忠たちの亡骸は、真夏の約2か月もの間放置された。
その間、伏見城の床板は流れ出た血液を吸い、そして染みついた。
何度洗っても、表面を削っても浮き出てくるそうだ。

そこで、元忠らの魂を供養するため、床板を寺院の天井に張り替えたのだ。
伏見城の遺構とされる寺院はいくつかあるが、最も生々しさが残るのが、
養源院である。

2.養源院とは

養源院は京都、東山区にある寺院。
浅井長政と妻・お市の娘の淀(茶々)が、父である浅井長政らの供養のために創建した。
茶々といえば、秀吉の側室として名前を聞いたことがある人も多いだろう。

養源院は一度消失するが、茶々の妹である江(ごう)が再興する。
その際に、伏見城の床を移築された。
茶々とその息子・豊臣秀頼の菩提も、江によって養源院で弔われた。

3.訪問

養源院の歴史と血天井に想いを馳せ、今まで3度訪れた。

はじめて養源院を訪れたとき、三十三間堂の近くにあるとは知っていたが、見つけられず、三十三間堂の警備員さんに場所を尋ねた。
そして本当にすぐ近くにあった。

養源院と書かれた名札が付いた門を潜り、少し登坂になった参道を、本堂へ向かって少し歩く。

本堂の中は撮影禁止。
訪問時間が一緒になった参拝者を数名ずつまとめて、順番に解説してくれる。

4.血天井拝見

本堂の廊下の天井が血天井だった。
齢90を超えていらっしゃいそうなおばあさまが、血天井の解説を担当。

「ここに手形がございます。」
そう言いながらおばあさまが細い竹の棒で天井を指す。

見上げると、薄い茶色の木板に赤茶けて染みついた「跡」が広がっている。
「ただの染みではない。」
ひと目でそう思った。

血痕がぼわっと広がっているわけではない。
人の指の跡、手のひら、足形があるのだ。
しかも、ひとつやふたつではない。

「追い詰められた鳥居元忠公と家臣たちは、次々に自害していきました。」
おばあさまの説明がクライマックスを迎える。
「切腹した後、長く苦しまないように介錯人が首を切って介錯をしますが、最後の一人は介錯人がおりません。」

そう言いながらおばあさまが差し示す先には、頭が胴についたままの人の跡が、そのまま残っていた。

といってもさすがにはっきりとはわからない。
「こちらがカッと開いた両の眼、鼻、口……胴がありまして、胡坐を組んだまま前に倒れたと思われます。」
と説明される。

しかし、人の跡というのはわかった。
それが鳥居元忠公かはわかならい。
当時ならまず、大将たる元忠公の立派な最期を見守って、家臣が後を追うのではないかと推察するからだ。

5.瞑捜

血天井を目の当たりにして、恐怖や気味悪さはなかった。
心霊やオカルトの好奇心やゾクゾクでもない。

ただただ、こんなことが本当にあったのか、と思う。
信じるもののため、精一杯生きた人がいて、その尊い魂を弔う人がいる。
そして、それを後世に語り継ぐ人がいる。

誰にも足蹴にされることのない「天井」という形になって。

デジタルと情報に塗れ、日々に忙殺されそうな私の、心の奥で燻っている
大和の灯が大きく揺れた気がした。

何度訪れても胸の奥に感じる熱量は変わらない。
私にとって養源院と血天井はそんな場所だ。

養源院については、血天井以外にもはなしたいことがある。
それはまたの機会に。

6.こぼれ話

はじめて訪れたときは、主人と一緒だった。
主人と解説のおばあさまを見て
「あの人はきっと、安土桃山時代から生きている人だ。」と言った。

腰の曲がった小さなおばあさまだったが、血天井の解説の御声はしっかりしていらっしゃった。

その後養源院を訪れた際は、もうおばあさまにはお逢いできなかった。
あの頃の年齢からすると、おそらく身罷られたのではないかと…
あちらで元忠公とほっこりお茶でも飲んでいらっしゃるといいなと思う。

元忠公から是非、おばあさまに労りのことばをおかけいただきたい。

きっとまた行こう、養源院。

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