【どうする家康・家臣列伝3】 金の揚羽蝶を背負った「情」の猛者・大久保七郎右衛門
徳川家康の有力家臣に、大久保一族がいます。大久保忠世、忠佐兄弟は「徳川十六神将」に数えられていますし、二人の弟の忠教は『三河物語』の作者として、また「天下のご意見番・大久保彦左衛門」としても名を知られています。一族こぞって勇猛果敢な三河武士であり、個々の印象よりも大久保一族という括りでのイメージの方が強いかもしれません。
そんな家康を支えた大久保一族の中でも、筆頭に挙げられるのが大久保七郎右衛門忠世でした。放送中の大河ドラマ『どうする家康』では、小手伸也さんが勇猛ながら自称「色男」のユーモラスな忠世を演じていますが、実際はどうだったのでしょうか。今回は忠世の実像を解説した記事を紹介します。
戦場に舞う金の揚羽蝶
合戦においては、敵味方を識別するためにさまざまな旗が用いられます。それらを総称して旗指物と呼びました。特に大将のいる本陣には、大ぶりの旗印や幟旗、馬標(馬印)などが立てられます。また将兵たちは背に旗を差して、乱戦の中でも識別できるようにしていました。武将が差すものを「自身指物」、伝令役の使番が差すものを「使番指物」、足軽が差すものを「足軽指物」と呼びます。足軽指物は長方形の「四半旗」で、家紋などが描かれた統一規格のものが基本。使番指物は足軽指物よりも面積の広い、正方形の「四方旗」が多く、伝令役であることを示しました。徳川家の「五(伍)」の旗、武田信玄の「百足」の旗などがよく知られます。また使番は指物ではなく、母衣(流れ矢を防ぐため、布に骨を組んで風をはらんだかたちにし、背につけたもの)の場合もありました。
これに対し武将が差す自身指物は、その武将オリジナルのもので、自分の存在を誇示するのが目的です。それだけに奇抜な意匠のものが少なくなく、旗の先端を細かく切った「切裂」を施したり、竿をわざとしならせたり、兜のかたちの作りものをつけたりと、さまざまな工夫がされていました。中でも元亀元年(1570)の姉川の戦いの際、織田信長の目に留まったのが、徳川勢の渡辺金大夫の指物で、赤い唐笠に金の短冊を18枚吊り下げたものだったといわれます。
そして天正3年(1575)の長篠の戦いにおいて、またも信長が注目する指物が現れました。それは巨大な金の揚羽蝶の2枚羽で、攻め寄せる武田軍にびったりとくっついて離れないのです。信長は敵か味方か判断がつかず、家康に使番を送って問い合わせました。その金の揚羽蝶の指物を背に、武田軍と激しい接近戦を演じていた武将こそ、大久保七郎右衛門だったのです。信長はその奮戦に感嘆したと『三河物語』にありますが、おそらくは金の揚羽蝶の意匠も、奇抜なものを好む信長を大いに喜ばせたのでしょう。
百足、毛虫、蜻蛉など、戦国武将は虫の意匠を身につける例が少なくありません。それはこれらの虫が後退しないから、つまり戦場で退かないのは勝利を意味するので、縁起がよいと考えたからでした。もちろん揚羽蝶も後退はしないでしょうが、あえて優雅なイメージの揚羽蝶を指物に選んだ七郎右衛門の真意はどこにあったのでしょうか。もっとも、信長が注目するということは、敵味方の目を十分引いたでしょうから、存在を誇示するという意味では大成功といえそうです。七郎右衛門の活躍については、和樂webの記事「家康の家臣『徳川十六神将』大久保忠世とは?生涯や逸話など紹介」をぜひご一読ください。
歴戦の猛者の素朴な温かさ
記事はいかがでしたでしょうか。
記事の中で七郎右衛門の従兄・新八郎忠勝が、家康の退却指揮を拒んだ話を紹介しましたが、これは忠勝に限ったことでなく、大久保一族には、たとえそれが戦略的なものであっても、退却を嫌う気質が色濃くありました。平岩親吉の記事でも触れましたが、『三河物語』の中で、真田昌幸の信州上田城を攻めた折、真田の計略を用心したであろう鳥居元忠や平岩親吉が、七郎右衛門の積極策を退けたことを「臆病風に吹かれた」として大久保忠教が辛辣に批判しているのも、おそらくそのためでしょう。同じ『三河物語』では、慶長5年(1600)の第二次上田合戦で本多正信が退却戦を指揮したことについても、やはり批判しています。三河武士の中でも、なぜ大久保一族にこうした気質が強くあるのか、興味深いところです。
また七郎右衛門は、敵であった武田旧臣の依田信蕃と心を通わせ、それが天正壬午の乱における家康の甲斐(山梨県)・信濃(長野県)獲得に貢献しました。また三河一向一揆で家康の敵に回り、その後、諸国を流浪していた本多正信を、徳川家に帰参させる口添えをしたのも七郎右衛門であったといわれます。正信の存在が家康の天下取りに大きく役立ったことは疑いなく、これも表に現れない七郎右衛門の功績といえるでしょう。
依田信蕃や本多正信という逸材を味方につけた七郎右衛門の手腕は大きなものですが、おそらくそれは計算づくのものではなく、戦国を生きる一人の武士として、七郎右衛門が主家を失った信蕃や、浪々の身の正信と心を通わせた結果であろうと想像します。そんないかにも歴戦の猛者でありながら、素朴な温かさを内に秘めたところが、七郎右衛門の魅力なのかもしれません。