【どうする家康・家臣列伝2】息子2人の後見を託された誠実な側近・平岩七之助
徳川家康の家臣というと、まず名前が挙がるのが本多平八郎忠勝や、井伊直政、酒井忠次、榊原康政の、いわゆる「徳川四天王」と呼ばれる面々でしょう。四天王の筆頭は年長の酒井とされますが、一般的な知名度は本多や井伊の方が上であるように感じます。
この4人にさらに12人を加えた、「徳川十六神将」(「徳川十六将」)という括り方もあります。鳥居彦右衛門元忠や大久保忠世、忠佐兄弟などが名を連ねますが、今回取り上げる平岩七之助親吉も、その中の一人でした。
放送中の大河ドラマ「どうする家康」では、岡部大さんが演じていて、鳥居彦右衛門とセットでいつも家康の側近くにいます。しかし平岩は、これまで他のドラマでは存在感のある描かれ方をされたことが少なく、どちらかといえば地味な扱いの人物でした。今回はそんな平岩を解説した記事を紹介します。
家康嫡男の「傅役」として
戦国時代、当主の跡継ぎには「傅役」と呼ばれる教育係がつけられることがよくありました。「もりやく」とも、「かしずきやく」とも読みます。有名なところでは、織田信長の平手政秀や、武田晴信(信玄)の板垣信方などが挙げられるでしょう。親代わりとなって跡継ぎの面倒をみる役目ですので、多くの場合、経験豊かで信頼のおける重臣が選ばれました。ちなみに家康自身は、幼少期から青年期まで駿府(静岡市)において今川家の人質であったため、身辺に仕える家臣はいたものの、傅役と呼べるような存在はいません。学問の師匠は今川家の太源雪斎でしたが、元服するまでの身の回りの世話や養育は、母方の祖母の華陽院が行ったといわれます。
家康(当時は松平元康)は駿府で元服後、今川家臣の娘(築山殿)を正室に迎え、永禄2年(1559)に嫡男信康が誕生。その後、桶狭間の戦いを経て今川家から独立した家康が、9歳で元服した信康の傅役に選んだのが、平岩七之助親吉でした。
七之助は家康と同い年で、家康の人質時代を常にともに過ごした近臣です。実直誠実な人柄で、戦場での派手な活躍は伝わっていませんが、本陣の家康の側で、体を張って護衛を務めました。また、指揮官としての冷静な判断も記録に残っています。信康の後見役には老臣の石川数正や、榊原康政の兄・清政も任じられていましたが、信康の傅役といえば真っ先に七之助の名が上がるところを見ると、最も親代わりを務めたのは七之助だったと見てよいでしよう。
信康はたくましく成長し、いささか粗暴な面はあるものの、戦場では父・家康も舌を巻くほどの活躍を見せる青年武将となりました。その陰には、七之助のさまざまな薫陶があったことを思わせます。ところが、青天の霹靂ともいうべき事件が天正7年(1579)に起こります。織田信長の娘で信康の正室である徳姫(五徳)が、父・信長に送った手紙に端を発するものでした。信康の切腹を、家康に求める信長。苦悩する家康に傅役の七之助が、悲憤しつつも告げた言葉とは……。
七之助の人生を変えた信康事件の顚末を含め、その生涯については和樂webの記事「徳川家康に命を救われた側近・平岩親吉。70年の生涯を解説」をぜひご一読ください。
『三河物語』と「旗本七備え」
記事はいかがだったでしょうか。
記事内では触れていませんが、天正13年(1585)の第一次上田合戦の際、七之助も鳥居元忠、大久保忠世らとともに主将の一人として参戦していました。鳥居の記事でも紹介しましたが、大久保忠世の弟・忠教が著した『三河物語』によると、上田城に拠る真田昌幸の計略の前に、翻弄された鳥居や七之助は震え上がり、その後、大久保忠世が積極的な攻撃を進言しても返答をせず、一切取り上げなかったとあります。
忠教もこの戦いに参加していますから、記述に一定の信憑性はあるものの、これについては歴戦の鳥居や七之助が敵に怯えて萎縮するとは考えにくく、おそらく大久保忠世らが主張する積極攻勢策では、地の利を活かした真田の罠にはまってしまう可能性が高いと判断して、慎重な態度を取ったのが実際のところではないでしょうか。しかし大久保兄弟にすれば「攻めなければ、勝利はない」わけで、そうした戦い方のスタンスの違いが、『三河物語』における上田合戦での、鳥居や七之助に対する辛辣な記述につながったように思います。
この上田合戦が完全に終わり切らないうちに、徳川家に一大事が起こります。宿老の石川数正の、豊臣家への出奔でした。徳川家の軍法が豊臣方に筒抜けになってしまった家康は、軍法を改めざるを得ず、武田家のそれを参考にした「旗本七備え」を定めます。そして7人の侍大将には四天王の面々や大久保忠世らとともに、七之助も名を連ねました。このことからも、家康が依然、七之助を武将として高く評価していることがうかがえるでしょう。
七之助が家康の9男で3歳の五郎太丸の傅役に任ぜられるのは、慶長8年(1603)のこと。七之助、62歳。「爺」と呼ばれるのにふさわしい年齢になっていました。七之助が没するのはそれから8年後、五郎太丸はすでに元服し、義利(のちに義直)と称して尾張(愛知県西部)名古屋城主となっています。七之助は主君の息子の成長を見て、役目を果たしたことに安堵しつつ、世を去ったのかもしれません。