慶長18年(1613)1月25日は姫路藩初代藩主で姫路城を現在の規模に拡張した池田輝政が死去した日。信長や秀吉に仕え長久手合戦で父恒興と兄元助が討死したため家督を継ぐ。亡くなった北条氏直の正室だった家康の次女督姫を秀吉の仲介で継室に迎えて関ヶ原合戦では東軍に属し姫路を与えられた。
慶長5年(1600)8月23日は東軍の福島正則らが信長の嫡孫で西軍の織田秀信が籠る岐阜城を落とした日。清須城に終結した正則や池田輝政らは家康の到着を待たずに進軍した。22日に木曽川を渡った輝政らに敗れた秀信は籠城するも竹ヶ鼻城を落とした正則も合流し岐阜城はわずか1日で陥落した。
慶長18年(1613)1月25日は池田輝政が死去した日。信長秀吉に仕え秀吉の仲介で家康の次女督姫の再婚相手となり関ヶ原では東軍に属す。姫路藩初代藩主で姫路城を現在の規模に拡張。豊臣氏は輝政が大坂の抑えである限り逆に安全だと考えた逸話も。何事も均衡を保つ役割ができる人って貴重です。
慶長4年(1599)3月4日は石田三成が加藤清正ら豊臣七将の襲撃計画により伏見城へ逃れた日。抑え役の前田利家が前日死去し起きた事件で家康が仲裁した。襲撃でなく七将が家康に三成の制裁を訴えた騒動だった説も。何にしても内輪で争っていたら利用しようとする者に隙を与えてしまうわけですね。