ある通訳案内士の休憩時間 第二回 ニッポンのナポリ
(この記事は姫路城の外国語ガイドが、インバウンド観光客に対して使えるネタや語学の勉強についておもしろおかしく書いているものですが、設定が分からないと訳が分からない内容になりますので、まず最初に第一回を読んでいただけると、それ以外の回をスムーズに楽しめるようになっています)
香川氏が備前丸のトイレ前にいる、ということは今日も「池田輝政」と談笑しているということか。私は足早に駆け寄った。
「こんにちは」
「ああどうも」
「あ、池田さんって呼んでいいんですかね、池田輝政氏はこちらに?」
「あ、いますよ」
「私のことは認識されているのでしょうか?」
「それは言えぬ」
「え?」
「うそです。ちゃんと認識しています。事情もちゃんと言っておきました。新聞を見たことがないので、高札(こうさつ、町辻や広場に高く掲げた板の札)を書く人と説明しています。文字が書ける人は重宝していたようなので第一印象はよさそうです」
「それは良かった(こいつめ💢)」
まだこの男が本当に池田輝政と話しているのか半信半疑なので、もしこれがすべてこの男の戯れであったならば、その後自尊心を相当に失いそうだと思ったが、ここはこの男に、いや自分という男の運に賭けたのだ。簡単には引くまい。
香川「宇喜多秀家が八丈島に流されたとき、池田氏の家臣が漂流したらしいよね。それで自分は池田の家臣だというと、輝政、運のいい男よ、みたいなことを言ったとか。宇喜多秀家のこととか覚えてる?」
池田「まあこっちからしたらあの男は運が悪いということだよね。世間は当時からソレガシのこと、運で成り上がったと言ってたけど、それはソレガシも一番そう思ってたの。でもね、引き当てた運に従って勇敢に進めるかどうかはその人の資質で、ソレガシは関ヶ原のときにはすでにそれを意識するまでに至っておった。宇喜多だってよほど運に恵まれておったと思うけど、詰めが甘いというか、運よりも大事なものがあるということに、運に恵まれたやつが気づくのは難しいのかもしれないね、と自画自賛。まあ太閤子飼いの中では、あの時点で徳川に靡かなかったのは男気としては称賛するけれども。それに対して福島や加藤なんかは、ソレガシに言わせれば中途半端だったね。大御所の前で「秀頼様」って言っちゃったらだめでしょ。ソレガシも豊臣恩顧でいえば相当だけど、人前では絶対に言わなかったからね、秀頼様だなんて。だから(大阪に最も近い)姫路をあてがわれたわけ。100万石とな(自画自賛)」
香川「ところで相変わらず福島正則のことキライよねー」
このブログが続く限り、読者には池田輝政という戦国武将については小出し小出しでその武功や人となりを紹介していくことになりそうだ。詳しくは輝政の年表などを追いかけてほしいが、ここでいう運の良いというのを整理しておくと、
1輝政の父が織田信長の乳母兄弟、祖母が信長の乳母
2秀吉の中国大返しのときに摂津(現在の大阪〜神戸)を所領にしていた
(よって山崎の戦いでは秀吉の与力として頼りにされ、恩を着せることができた)
3最初の奥さんが病で実家に帰ったとき、家康の娘も離婚で実家に戻っていた。よって家康の婿養子になった。
4朝鮮出兵は当時吉田城(現在の豊橋市)城主、徳川牽制のため?出兵免除。(物資の運搬などで活躍している)
5関ヶ原では結果動かなかった毛利軍の牽制だけで戦わずに恩賞を得た。(前哨戦では大いに戦っていてそれも評価されている)
ここで池田氏が人の資質と言うのは、3のときに、太閤子飼いの大名の中で、半ば空気を読まずいち早く徳川と関係を持つことを決断したこと(徳川には父親と兄を殺されているにもかかわらず)、あるいは関ヶ原ではより武功の多い諸将を出し抜いて、あるいは彼らの上に立とうとして、とにかく一世一代勇敢に振る舞ったこと、などを言っているらしい。そしてそれは亡き父の勝入斎恒興が中国大返しのときに快く秀吉に従うふりをしつつ、大いに恩を着せるように動いたことなどの下地がある。そして一旦どちらかに賭けたならば命を賭けてやりぬくのも、後世我々が史実から読み取れる池田家のうまい身の振り方である。(260年後、備前池田藩は藩祖輝政の作った姫路城を砲撃する)
池田「今日案内してたのはいづれの国のお人か?」
香川「イタリアっていいまして、輝さんの頃は宣教師のオルガンティーノとかヴァリニャーノ」とかがその地域出身。そのころはイタリアとは言ってなかったと思うけども」
池田「ニッコロもそうでないか?」
香川「織田信長の肖像画を書いた…(ググって)本当だ。ナポリ出身と書いてある」
イタリアの中世を少し調べると、それは諸外国の統治下の時代が長い。スペイン、フランス、オーストリアなどが縦に長い国土をそれぞれに分捕ってバラバラに統治していた。よって南北の気候の違いだけでなく、統治する国の影響にも左右されながら、有名なイタリアの地域性(カンパリニズモ)が醸造されていくのである。
パスタとは我々のよく知るイタリア由来の小麦粉で作った食材で、細麺のスパゲッティが有名であるが、マカロニ、ニョッキ、ラザニアなど形状によって名称が異なる。パスタはそれを総称する言葉であるが、その昔はマカロニのイタリア語版「マッケローニ(maccheroni)」こそがこの食材の総称だった時代もあった。日本にはアメリカの進駐軍がそれぞれの言葉を伝えたらしく、アメリカ人が細麺をスパゲッティ、穴開きをマカロニ(マッケローニの英語訛り)と呼んでいるのが日本語に取り込まれた。
それぞれの地域で違う品種のパスタが作られているが、今日よく使われる乾燥パスタは南部イタリア、そしてナポリが一大生産地、消費地となる。そしてスペイン支配が続いたナポリでは、大航海時代に南アメリカからの食材が大量に入ってくるようになり、これを転機にトマトソースが主体のナポリ風が発達するのである。
香川「そういやナポリの人にナポリの自慢をしてもらうと、「カゴシマ」というワードが出て、なんのこっちゃと思ったんですが、実はその風景がそっくりということで、姉妹都市関係にもなっているほど。具体的には海岸線沿いの都市から海を挟んで火山が見える、鹿児島は桜島のこと。ナポリの方はというと世界的に有名なベスビオ火山(il monte Vesuvio)が見えるんですって。ベスビオ火山は西暦79年の噴火でポンペイを焼き尽くしたので有名な山です」
池田「海の外にも火山があるのか、それにしても町を焼き尽くすとはいやはや。島津も九州平定前に火山が起こってたら楽だったのに」
香川「不謹慎な。それでも家臣団を統率する大名かいな。一緒に巻き込まれる可能性だってあるのに」
池田「おぬしは島津がどれだけ強かったか分からんからそう言えるんだ。どれだけの仲間が死んでいったか(むせび泣く)」
香川「…(でも自分の味方以外が亡くなるのはOKってのは現在では通用しないんだよね、この人に言っても無駄か)でも最終的に池田藩は明治維新で薩摩側に付いたんですけど、これはいかに?」
池田「そのときそのときでなりふりを考える、賢明な判断だよね」
香川「…」
香川氏にナポリの話をしたイタリア人観光客は、実際に「カゴシマ」と呼ばれるナポリの有名な海岸の動画を見せ、氏はあまりにも素敵な動画だったためそれを自分のスマホに送ってもらったということだ。私もその動画を拝見させてもらったが、ベスパ(イタリアのスクーター、そのおしゃれな外見に世界中のファンが各地で集合したりする、イタリア語でvespaは蜂の意、蜂に似ていることから)に乗ってその海岸を走る自分の姿を誰かに撮ってもらったものだ。ベスパのかわいらしさもさることながら、海の向こうに見えるベスビオ山。その歴史の長さに思いをかきたてられる山容だ。現地の人からこんな素敵な動画をもらえるとは、通訳ガイド、いい仕事であるとつくづく思ったりする。