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ここらへんの史跡をゆく⑦~長久手

孫が来た時用のテーブルと椅子を買いに IKEA に行った。この辺りの IKEA は長久手市にある。そうです。あの有名な戦いがあったところ。

孫がここでご飯を食べる 可愛い

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「戦国10大合戦」というものがあるそうだ。歴史的重要度の高い合戦のことだが、ここ愛知県が戦場となった三つの合戦が含まれている。古いものから1560年 桶狭間、1575年 長篠・設楽原、1584年 小牧・長久手の戦いと続く。

※私の note 「ここらへんの史跡をゆく」は、シリーズ①で桶狭間、シリーズ②で長篠を取り上げた。そして今回⑦が小牧・長久手。無計画なようで押さえるべきをちゃんと押さえている。

小牧・長久手の戦いは、本能寺の変(1582年)で斃れた織田信長亡き後の覇権争い。羽柴秀吉織田信雄徳川家康連合軍が戦った。秀吉と家康が唯一直接対決した戦いとして特筆される。(以降 "秀吉軍" "家康軍" と記す。)

信長の血筋や旧臣らが疎ましく、彼らを排斥したい気持ちがあからさまな秀吉。一方織田家の衰亡に歯止めをかけたい信長の次男信雄(のぶかつ)は、家康に援けを求める。両者の確執は深まるばかり。1584年3月ついに戦いの火ぶたが切られた。

はじめ家康軍に付くと思われた池田恒興が突然の寝返り。犬山城が攻略され秀吉軍の本拠となる (本陣は南に5kmの楽田城) 。それを見た家康は清須城から小牧山城に移動。自然の要塞ともいうべきその堅固な山城に、更に修築を施し臨戦態勢を整える。

犬山城(秀吉軍)
小牧山城(家康軍)

睨み合う両軍の距離は 6kmほど。膠着状態がひと月ほど続いた頃、秀吉軍の池田恒興が提案した。「家康が小牧に詰めているこの機に、手薄になっている岡崎を攻めましょう!」  秀吉はこの作戦を認め、池田恒興を先鋒隊とする総勢4隊2万人の兵が岡崎に向けて動き出した。
家康軍はこの動きを察知。すぐに小幡城に主力部隊を集結させて、情報収集のうえ軍議を謀った。

岡崎に向かう途中、先鋒の池田恒興隊は岩崎城(上の地図右下)からの攻撃を受け応戦する。岩崎城を守る徳川方の丹羽氏重と300人の兵は、進軍を阻止すべく善戦したが多勢に無勢、最後は全員が討死し岩崎城は落城した。

池田勢が岩崎城を落とすのに要した時間は約3時間、後続の部隊はその間足止めを食っていた。白林山で待機していた第4隊の羽柴秀次勢は、徳川軍の奇襲を受け敗走した。さらに一進一退の後、長久手に場所を移して両軍は激突する。2時間余りの戦闘で第2隊の森長可は狙撃され死亡、池田恒興も槍を受け討死し秀吉軍は壊滅。戦いは家康軍の大勝利に終わる。

戦いから半年以上経って、秀吉と信雄・家康は講和を結んでいる。長久手の戦いに勝ちその力を示した家康ではあったが、「時勢は秀吉」と判断せざるを得ない状況に世は動いていた。

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池田恒興について少し。彼はこの一連の出来事の緒戦から登場し、最後は長久手で戦死してしまった。全体を通して主役級の登場頻度だ。

【プロフィール】池田恒興は1536年生まれ。2歳年上の信長の小姓として育つ。織田家宿老のひとりとして清須会議にも参列した。美濃13万石を拝領。

三谷さんの映画「清須会議」では佐藤浩市さんが演じている。そこには優柔不断で人望薄い人物が描かれている。この戦いでの一連の行動  "突然の寝返り"  "手薄な岡崎攻め提案"  "岩崎城に手を出す判断" などからダメキャラ設定になったのではないか。多分そんな人物じゃないと思うのだが‥   この戦いでは全部が裏目に出ちゃったんだな‥ そうゆうことってあるよなぁ。
来年の大河「どうする家康」で、脚本の古沢良太さんがどんなふうに描くのかが楽しみだ。誰が演じるのかな。

映画「清須会議」での池田恒興

【因みに】恒興の次男池田輝政も長久手の戦いに参戦している。そこで父と長兄を失くしたが輝政は何とか生還した。輝政は関ケ原では東軍の将として戦い、戦後は初代姫路藩藩主となった。姫路城の大規模改修に着手し現在の城のかたちを造ったのは輝政だ。池田家はその後転封はあるも、岡山藩と鳥取藩で明治時代まで続いている。

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IKEA の帰りに、長久手古戦場公園と岩崎城址(日進市)を訪ねました。
どちらにも資料館が併設されています。

長久手古戦場公園 戦場跡
長久手古戦場公園 池田恒興討死の場所(勝入塚)
岩崎城 1987年築城の模擬天守
岩崎城 りっぱな石垣

< 了 >

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