白央篤司、自炊力 料理以前の食生活改善スキルを読了。 ツイッター経由で気になっていた一冊。 自炊のモチベだけが高まっていた状態で、結局好きなものを作ればよいのだと気づけた。いつか友人を部屋に呼んでその人においしいものを食べさせたい。 最初の一歩は冷凍食品にトライすることから。
自分のインターネットはそれに生きられるほど輝いたものではない。それよりも素晴らしいものは多くあるが、それの引力のせいで見えなくなっていることに気づいていない。頼むから目を醒ませ。
石川直樹、この地球を受け継ぐ者へを読了。南極に行きたいという衝動や、吹雪の八甲田や永遠とも感ぜられた長い山道で抱いた自然への感覚を思い出させる旅の記録だった。 自分は想像力が弱いから実際に感じるということをもっと大切にした方がいい。文化でも他人でも自然でも、経験を吸収すべきだ。
人生における伏線がこれほど明らかに明示されたことがあっただろうか。 今感じているこの確信は、アニメや文学の世界に対してではない。 現実に対するものなのだ。 いつから人生というものはこんなに面白くなった。
村上春樹、ノルウェイの森について。 小1,2,4年生ぐらいのときに読んだことを思い出した。冒頭の飛行機や空港での場面だけ読んで、よくわからなくて読むのを読めてしまった。 今の感性もそれなりでしかないが、エピソードとそのつながりがいいなと思う。
ワクチンのせいで怠く、かすかに熱っぽい早春の雨の夜。背もたれによりかかってスーパーカブを見た。静かが一番の贅沢に感じられた。春からは一人暮らし。このアニメのように静かな場所に住む。小さいけれど確かな期待がある。目を瞑ってそれを噛み締めながら、眠ろうとする。
子供の頃の私が憧れた自分になれた自信はないけど、生きやすい選択を重ねられる自分では在る。たとえば、受験に一心不乱に向かい、無我夢中で勉強する受験生にはなれなかったけど、やるべきことをなしておこうと思える自分にはなれている。
受験前日 自信はないが不安もない。 BURNOUT SYNDROMESのヒカリアレを聞いて最後の準備を整える。 結果は既に決まっていて、それがより良いものであるように祈るのだ。 友人との電話の中で自分も彼もいつも通りであることは確認できたから、あとはもう大丈夫だろう。
共通テスト自己採点日の帰り道。 満月が綺麗に見えたのがよかった。
孤独でいる時間には、そうでない時よりもっと自分の周りに敏感になるべきである。他人といる時には他人が世界の知らない面を見せてくれるが、一人でいる時は扉を開かなければ新しいものは見えない。そうして得た新しいものは今の自分への刺激となり、将来の自分への足跡となる。
「すべてがFになる」の中より、「我々が自然をご褒美のように感じるのは我々の中が美しくないからである」という一説に共感した。登場人物の合理的な視点たちは、自分がどのような価値観を持ちたいかという問いに対して大きな影響を与えた。
「やはり俺の青春ラブコメは間違っている。」を読みながら。 コミュニケーションにおける自分の気持ちや作品や風景に対して自分の感じた美しさなどを限りある言葉で表現することは、自分だけの感情を一般化することのように思われる。しかし理解し合うためには言葉を尽くすほかないのだ。
外山滋比古、乱読のセレンディピティ読了 本に没入しすぎて自分の思考を忘れることに注意したい。 染まることはわかりやすいが自分らしさを失わせる。変わる変わらないを意識せず、ただ浸食のように変えられることが望ましい。 思考の整理学に通ずる筆者の哲学を見たので、そこを掘り下げたい。
友人と話したり食べたりを終えた後の夜に寝るのは勿体ないと思って久しぶりに明け方まで起きていた。一人暮らしの深夜は一人だから、気の赴くまま行動することを妨げるものはなかった。水の中を漂って、流れに身を任せるような心地よさを満喫して、目が覚めたら、インスタントラーメンが消えていた。
共通テストに向けて、自信が無くなったり不安定な状態ではあるけれど、全力を尽くす他ない。大きな選択であることをそろそろ自覚すべきだ。 どうなりたいかを強く願って、高校の3年間を裏切らないように行動したい。
基本性に関する「最小構成」という概念。 そのものを除いて機能するかどうかで基本性を評価するという考え方。 この考え方は抽象的に考える上で大きな武器となりそうである。 例えば、受験勉強における取捨選択。 例えば、アウトプット。 例えば、将来。
通学路を静かな裏通りに変えて 毎日に幸せな時間が待っている 3人で中学生の時通った道とも 高二の夏遠回りした通学路とも 目線を変えた自分が歩んでいる 雀と鈴虫の囀りが足に纏われて 空と星と猫をみつめみつめあう
よりみちサンセットを聞いて帰った夕暮れ、 我が家の自転車の下に猫がいた。 グレーの猫はくつろいでいて、 自分が来たことを気にもせず、 座ったまま動こうとしない。 家に入って、 鍵をかけて、 制服を脱いでも、 きっと猫はそこにいる。 家の中には自分一人。 また明日も頑張ろう。
では、「変わること」と「変わらないこと」ではどちらか正しいのだろうか。
他人に流される必要もないけれど、自分を貫く必要もない。 けれど未だ他人と繋がる意義が理解以外に理解できない。 エヴァを見なければ。
アイドルマスターとスタァライトの引力よ。
他人のための写真と自分のための写真。 違いは捉えたものに抱いた感情を見る人に抱かせるためか、撮るときの感情を思い出すためか。 それではゲームのキャラクターに揺らがされた感情をそのスクリーンショットを見て思い出すことはあるのだろうか?
レヴューでしたね。失礼。
幸せを共有すべき他人がいなくなってしまった。 扇子はもうある。団扇が欲しい。