生きる意味に一歩近づいて、二歩下がる人生

生きる意味は何かというありふれた問題については小学校の時から何度か向き合ってきた。
とは言っても欠点のない答えが得られるわけでもないので、妥協点を見つけて、折り合いをつけて、しばらくしてからまた向き合って、ということを繰り返してきた事になる。
その波が波がまた来て去っていったので、この間について考えたことをまとめる。

1.生きる意味を探すことが生きる意味である


絶対的な生きる意味の形として簡単に思いつくものは、成し遂げるものだったがこのあり方は、成し遂げたそのあとはどうなるのかという問いによって否定される。
では心掛けるものというのはどうだろうか。
たとえば人を幸せにすることが生きる意味である人を考える。
この人は生涯を終えるまでその目標を達成するために、規模はどうあれ、さまざまな手段を用いて行動するだろう。
そしてこの人の生きる意味は、この目標であるといえそうである。
ただしこの目標は、ほぼ不可能であるものの、これはある意味成し遂げるものでもある。

以上から、理想の実現が生きる意味とはいえないだろうか。
人は誰しも、大小の見え方は人によって異なるけれども、理想を抱えて生きている。
ここでの理想は、時に幸せとも言い換えられる。
その理想は一つではなく、さまざまなものがある。
そしてそのいくつかを実現していくうちに自分の理想に繋がっている、根底にある概念に気づく。
その概念こそが生きる意味を表すのではないだろうか。
先ほど例に挙げた架空の人が、その親や友人や親しい人に喜んでもらうための願いを多く叶えてきて、そのことで人を幸せにするという理想の存在に気づいたというのは、想像に難くない。
そして自分が生きる意味を理解していないのは、理想を実現する体験が不足していて、根底にある概念に気づいていないからではないか。


結論:生きる意味とは己の理想の実現。
生きる意味がわからないのは理想が何かわからないから。


したがって、今の私にとっては生きる意味を探すことよりも理想を探究することの方が優先度が高いから、この問いに対する答えは保留とする。







と終われば楽だったのだが。

2.生きる意味という概念が存在するかどうかはわからない


書いている今でも受験生の身である私は、つい先日まで共通テストの対策に励んでいた。
その中で特にためになったと感じたのは国語の評論であり、普段教科書以外でそういう本は読まない自分には新鮮なものの見方で書かれた文章が多く、たくさんの考えを吸収できた。
その中で、「科学における真理に近づこうとする人は、キリスト教における予定説を信じる人が救済の存在を確認できないのと同じように、真理自体の存在を疑いながらも、行動している。」といった内容の考えに出会った。
つまり存在の確認はここでは問題でなく、信じるべきだからそうしているに過ぎないということだ。

私はこの発想自体にもなるほどと思わされたが、それと同じくらいに不安雨を感じた。
それが先の生きる意味につながるのだが、要するに、私が信じているだけで、生きる意味とは存在しないのではないかと思い至ったのである。
もちろん全ての物事が自分の認識に依存している以上、私の中では信じれば存在するし、その逆もまた然りというのは当然だ。
だからここで問うべきは、何故生きる意味や理想が存在すると私が信じるのかである。

ここに至るまでで私はこの問題を考えるのに疲れてしまった。
だからこの先を考えるのはまた次に考える機会が訪れる時になるだろう。
現時点での答えは、その方が楽だからである。
私の場合、ある問題を考えるときに、その問題が答えがあると信じて解くのと、信じないで考え続けるのでは、モチベーションは大きく変わってくる。
無意識にその方が楽だと判断して、自分でそう信じているというのが答えだ。


最後に今回引用した内容には、うろ覚えな点や読解が未熟なために誤った点があるかもしれない。その際はご容赦を。

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