天文2年(1533)2月9日は薩摩で島津四兄弟の長男・島津義久が生まれた日。義久は義弘・歳久・家久という優秀な弟たちを統率し薩摩から九州統一を進めるも秀吉の九州征伐で降った。島津家は関ヶ原の戦いでは西軍として戦ったが戦後処理で義久の粘り強い講和交渉で改易を免れ本領安堵となった。
慶長16年(1611)1月21日は島津家の最大版図を築いた島津義久が79歳で死去した日。義弘・歳久・家久という有能な弟たちを取りまとめる島津四兄弟の長男で父貴久から家督を継ぐと大友宗麟や龍造寺隆信らと争った九州三国志を制すも秀吉に降る。西軍に属した関ヶ原合戦の危機も乗り越えた。
天文2年(1533)2月9日は島津義久が生まれた日。薩摩から九州統一を進めるも秀吉の九州征伐で降った。関ヶ原合戦で弟義弘は西軍として戦ったが戦後処理の粘り強い講和交渉で島津は改易を免れ本領安堵となった。兄弟でも殺しあう時代にどうすれば優秀な3人もの弟を統率できるのでしょうね。
天文15年(1546)3月10日は肥前の龍造寺家兼が死去し曾孫の隆信(胤信)が家督をついだ日。前年に祖父と父が主君への謀反の疑いで誅殺され仏門にいた隆信が還俗。肥前の熊の異名を持ち大友、島津と並ぶ九州三強の一角を担う。僧で曾孫って…何が世に出るきっかけになるかわからないものです。
慶長16年(1611)1月21日は島津義久が79歳で死去した日。島津四兄弟の長男で家督を継ぐと九州三国志を制すも秀吉に降る。西軍に属した関ヶ原合戦の危機も乗り越えた。幕末まで島津に暗君なしと言うが舵取りの難しい戦国期も義久はじめ弟達も皆優秀ってこんなことなかなか他ではないのでは。
天正6年(1578)11月12日は大友宗麟が高城・耳川の戦いで島津義久に大敗した日。日向国の伊東義祐が島津氏に敗れ豊後国の宗麟を頼った。宗麟は軍配者・角隈石宗や立花道雪などの反対を押し切って日向へ侵攻。この敗戦で石宗など多くの家臣が討死。さらに肥前・龍造寺隆信らの離反を招いた。
天正15年(1587)5月25日は秀吉の九州攻めで降伏した島津義弘に大隅国、義弘の子の久保に日向諸県郡が与えられた日。4月21日に兄の義久が人質を出して降伏した後も義弘は抵抗を続けていた。1か月後の5月22日に義弘は兄の懸命な説得により久保を人質に出す条件でようやく降伏した。