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第16話「先制攻撃」(島津に待ったをかけた男『大友宗麟』)

西暦1578年(天正六年)10月20日未明、大友勢の先陣30,000兵強が島津方の新納院高城(宮崎県児湯郡木城町)の城下に迫りました。

この時の陣立ては以下のとおりです。

本陣:総大将・田原親賢(豊前妙見嶽城主、宗麟の義兄)
左翼:佐伯惟教(豊後国栂牟礼城主、宗麟重臣)
右翼:田北鎮周(宗麟重臣)

この陣立ての通り、宗麟自身は出陣しておりません。

この頃の彼は務志賀(延岡市無鹿町)に留まり、キリスト教王国の構想に余念がなかったのかもしれません。しかし、戦に関するの命令はすべて宗麟自身が発令していました。すでに高城近辺では島津勢と緊迫した状況ができていたにもかかわらず、それを肌で感じることができない宗麟の命令にどれだけの現実味があったのかは不明です。

新納院高城について

今回、大友勢が攻めよせようとしている新納院高城についてご説明しておきます。

新納院高城は、日向国内に三つ存在したと言われる三高城のうちの一城です。日向国内にはこの新納院高城の他に三俣院高城(都城市高城町、主に島津家庶流・北郷氏の城)穆佐院高城(宮崎市高岡町、当初伊東氏の城だったがこの時期は島津氏の城)がありました。

新納院高城は、北には谷瀬戸川(現・切原川)、南には高城川(現・小丸川)に挟まれ、標高60~70mほどの半島型台地の上に築かれており、北側、東側、南側は絶壁。唯一平地に繋がっている西側には5~7の塹壕(空掘)を設けるという当時としては途方もない防御能力を有しておりました。

この城を守るのは島津家当主・島津義久の側近・山田有信。当時四十二歳。この年の2月に城主になったばかりで、まだ8ヶ月足らずでした。

高城の戦闘準備

有信は、大友勢が夜間に炊く篝火の数が増えていくのを見るにつれ、城内の兵力わずか300兵では守り難いと察知し、今のうちに鹿児島に急使を走らせ、同時に現在の島津領の前線基地である佐土原城(宮崎市佐土原町)にも急使を送りました。

これを受けた佐土原城主の島津家久(義久末弟)は即座に1000余りの手勢を率いて佐土原を発し、高城内に援軍として入りこめました。また近隣の都於郡城(宮崎県西都市、旧伊東氏の本城)からは鎌田政近比志島国貞らの手勢が加わり、城内には瞬く間に2000強の兵が集まりました。

城下に陣を展開していた大友勢ですが、家久らの援軍の入城をやすやすと許しているところが腑に落ちません。それだけ大友勢が島津勢を甘く見ていたのか、油断していたのかどちらかだとは思います。

大友勢から見れば、30,000兵で押し寄せているので、島津がいくら兵を入れようとものの数ではないという驕りもあったのかもしれません。

大友、動く(大友勢第一次攻撃)

西暦1578年(天正六年)10月20日早朝、大友、島津両軍が緊迫する関係の中、先に動いたのは大友勢でした。突如軍勢を動かし、城の外側を囲んでいた木柵を押し倒し、高城本丸がある半島型台地の下まで迫ると、大友勢が崖を登れないように島津側が設置した防御板に火をかけて瞬く間に焼き払ったのです。

一方の高城内の兵たちは、本丸の崖の上から熱湯をかけて大友の火攻めを消そうとしたり、燃え尽きた防御板を超えて崖をよじぼってくる大友勢に、大石の雨や鉄砲を射掛けて敵兵をよせつけず、防戦一方でした。

しかしながら、大友勢も高城の崖は断崖絶壁でよじ登るのも一苦労、その上頭上から湯や石など様々なものが降ってきてはダメージも激しく、成果もあがらずでどんどん兵の士気がさがっていき、数時間後には一旦城から離れて退却しました。

台地から離れて平野部にて陣を張り、体制を整える大友勢に対し、本丸部分の外壁に鉄砲を並べて近寄るものあらば即座に射かけようとする島津勢。両軍のにらみ合いが数刻続きました。

銃撃戦(大友勢第二次攻撃)

同日昼を過ぎた頃、大友勢に再び動きが見られました。大友勢も1000近い鉄砲隊を用意し、再び高城本丸の半島型台地に攻めかかったのです。

待ってましたとばかりに台地上の高城外壁の島津勢鉄砲隊が火を吹きます。しかし、島津勢の鉄砲隊はわずか百足らず大友は千に近い鉄砲の数。絶対数で確実にかないません。瞬く間に台地下にとりついた大友勢の鉄砲隊が、台地下から台地上の島津鉄砲隊を狙い撃ちました。

当時の鉄砲の有効射程距離はおよそ100~200メートル。台地の高さが60~70メートルであれば、有効射程距離内ですが、頭上に向かって撃てば、重力の関係上、思ったように届きません。

ましてや島津勢鉄砲隊は城の外壁に守られ、地に伏せて鉄砲を構えており、大友の鉄砲玉が命中することは殆どありませんでした。その上、当時の鉄砲は一発撃って続けてもう1発撃つには、火薬、弾込めなどの作業が必要で、連射が全くできなかったのです。

こうなると同じ鉄砲隊でも全く意味合いが違ってきます。大友勢鉄砲隊は数の上で島津勢鉄砲隊を上回ってますが、頭上に向けて撃つため命中精度が悪く、また一発撃ったら最後、再び弾込めしてる間に島津勢鉄砲隊の餌食になってしまいます。

一方で島津勢鉄砲隊は大友勢鉄砲隊の十分の一ですが、城内にいるため、防備が完全な状態で火薬や弾込めが可能で、可及的速やかに二発目を撃つことが可能でした。

当初千近かった大友勢鉄砲隊は、成果は上がらない上に次々に島津勢鉄砲隊の格好の的になってしまい、次々と骸を台地下に広げていきました。そして再び撤退命令が出されるのです。

やけっぱちの突撃(大友勢第三次攻撃)

同日夜、完全に日没となった頃、大友勢は三度目の戦いを挑みました。今回は残った鉄砲隊と一般の槍兵とを合わせた混合部隊を組み、大声で鬨の声をあげて台地下に攻めかかったのです。

文献だけ読むと、とにかく大声を上げて城にとりついて攻めかかるという「もうほとんどヤケクソのような攻め方」にしか見えません。この三度目の戦いも島津勢には殆ど死傷者なく、大友勢のみに損害がでただけという、なんとも無駄な戦いでした。

都之城からの出撃

さきほど、高城城主・山田有信が「大友勢が城下に兵を展開している」ことを鹿児島に急使としては派遣したと書きました。
その知らせは翌日には鹿児島の島津家当主・島津義久に伝わっていました。

義久は鹿児島から本隊を派遣する前に、島津一族で都之城城主(宮崎県都城市)の北郷時久(ほんごう ときひさ)に援軍を出すように伝令を飛ばしました。

北郷氏は、南北朝時代、島津宗家四代当主・島津忠宗の六男の資忠よりはじまる由緒ある家系で、足利将軍家より直々に薩摩迫庄内(現:宮崎県都城市山田町あたり)の領地を賜り、北郷氏を称したことから始まります。時久はその十代目当主にあたります。

義久から命令を受けた時久は嫡男相久、次男忠虎と共に数千の兵を率いて都之城を発し、宮崎城(宮崎県宮崎市瓜池内町)に入りました。

高城攻めの前哨戦は大友勢の手痛い敗北に終わりましたが、迎撃する側の島津氏の体制は着々と固まりつつありました。

大友勢はこの3度の戦いの損害がひどいせいか、翌21日には動きはなかったようです。そして23日、城の包囲網を厳重に固めるように方針を転換させました。積極的攻撃から持久戦への様相を呈してきたのです。

戦場の閑話休題

この頃、大友勢の志賀勘六という侍が、陣中見舞いと称して、酒樽と菓子を高城内に差し入れたという記録が残っています。これに対し、城内の島津方は翌日、島津家家臣・上野半介を遣わして、高城川で取れたスズキと酒樽を返礼として差し遣わし、大友の陣と島津の陣の間で酒盛りが行われたようです。

戦国時代において敵味方というのは大将同士の話で、その下知によって働かされる将兵に至っては、別に敵が憎くって戦っているわけではなく、主命だから戦っているわけで、戦場の命のやり取り以外では、こういう光景が普通にあったのかもしれません。今の世の中ではなんとも理解しにくいところではありますが。

大友家中からの造反

大友の兵と島津の兵が酒を組み合わして盛り上がっているところに、大友方の陣から弓矢や槍などを構えた少人数の軍勢が出てきたため、兵たちは我に返って座が一気に緊迫しました。

実は島津方も自軍の兵を守る為、この座の遠巻きに弓兵を配備しており、大友方の軍勢を認めると、即座にその姿を現して弓に矢をつがえました。

ところが、大友方から出てきた軍勢は、島津の弓兵の一団を認めると、歩みを止め

「我が主、義を以って、薩摩衆に申しあげたいことがあり!ただいまより矢文をもって申し上げなん!」

と声高に叫ぶと、手紙を巻きつけた矢を撃ちました。島津の弓兵はこれを拾って高城に持ち帰り、島津家久に見せました。

手紙は、筑後国の国衆で鷹取城(福岡県八女市星野村)城主・星野長門守高良山(福岡県久留米市)高良大社の執行・良観という名が署名されており、手紙は次のような内容でした

「此度、我が御屋形様(大友家当主・大友義統/宗麟嫡男)のお下知に従い従軍しております。されど昨今の御屋形様の治世は、古来の家臣を蔑さげずみ、民草を虐待するような暴政にて、我らは大いに不満があります。されど我らの力では反抗することもできません。よって、我らが軍勢200兵余り、時が来れば必ず島津方に忠節を尽くしますことをお伝え申し上げます。またその際は笛を吹いて合図いたしますので、どうぞよろしく」

つまるところ、大友を見限って島津に付くという内応(裏切り)の打診だったのです。

国衆がこのような行動を取るということは、大友勢における軍律の徹底および国人統制が非常に甘いものであると同時に、総大将である田原親賢もその程度の器しかないということを、言下に島津に伝えてしまうことになってしまいました。

これを読んだ高城の家久は「吉兆なり」と喜び、城内の将兵たちに「大友、恐るるに足らず、我らの奮戦次第で、大友家中より大いなる味方現れん。よって、御屋形様(義久)の兵が到着するまで死に物狂いでこの城を守るのじゃ」と檄を飛ばしました。

造反の真意

星野長門守の行動は、明らかに大友勢が一枚岩ではない証明となりました。では、何故そのような行動を星野長門守は取ったのか。単なる大友氏に対する不満とだけでは片付けられない何かがあると考えるのが普通でしょう。

その理由として、この戦いの大元が考えられます。

この戦いは、そもそも日向国主であった伊東義祐の旧領を回復するという大義名分のもとに、日向国に出兵したことで起きた戦いです。これは宗麟にとってみれば、助けを乞うてきた親戚(義祐の嫡男だった故・伊東義益の妻・阿喜多御前は宗麟の姪にあたります)のために一肌脱ごうという理屈は成り立ち、大友氏譜代の家臣にとっても名誉なことではありますが、その結果、動員される他国の従属国衆からすれば、迷惑な話以外何物でもありません。

件の星野長門守は、筑後国鷹取城城主で、大友氏の外様国衆です。遠い日向国の戦いなど自分には無益のものと考えても仕方なく、「大友の命令だから......」という理由だけで参陣していては、士気も上がるわけがありません。

ましてや、今回の出兵の真意が宗麟の「キリスト教王国樹立」というアホみたいな妄想にあるということを知れば、キリシタンでもない星野長門守にとっては、北日向(宮崎県北部)の神社仏閣の破壊は心穏やかなわけがないでしょう。

また、宗麟のキリスト教へ帰依度合いは年々酷くなり、それに対して諫言するする家臣たちは遠ざけられ、大友氏家中においても問題となりつつありました。星野長門守がそれらを「古来の家臣を蔑み」と表現するのも当たらずも遠からずという状況だったのです。

ここまでのまとめ

この戦いは「高城川の合戦」または「耳川合戦」と言われ、九州の覇権をかけて筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後の6ヶ国を実効支配する大友宗麟・大友義統と、薩摩、大隅、日向の3ヶ国を実効支配する島津義久との戦いです。

この戦いで大友と島津が用いた兵力はともに30,000とも40,000とも言われ、兵力では拮抗していました。

しかし、大友が日向に出張ってきたのは、日向を島津に追放された伊東義祐を復権させ、日向にキリスト教王国を作ることが目的なのに対し、島津は先祖以来の悲願である薩摩、大隅、日向の完全支配にありました。

ここで軍勢の熱量の差がでてきます。

伊東義祐の復権は、成功すれば日向国の実効支配が可能になり、大友家にとっては名誉なことではありますが、キリスト教王国樹立は宗麟個人の欲望でしかありません。それに兵を率いて駆り出される「手伝い戦」に動員される国衆の中に、星野長門守ような思いを持つ国衆は他にもいたと考えられます。

一方で島津の場合は、三州守護が先祖以来の悲願であれば、領主、家臣、領民一丸となって成し得ようと考えるのがこの時代の常だと考えます。

両者は兵力こそ拮抗していますが、戦う前からマインドセットで勝敗が決していたのかもしれません。



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