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戦国その10 九州の侵略王:島津義久とその兄弟、家臣団と軍団。

「三州の総大将たる財徳自ら備わる」義久評 -島津忠良(祖父)-

島津最大版図(白色部分)

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薩摩国 鹿児島 島津(本宗・奥州)家


<島津第1世代> 紫文字は伊作島津家と同盟、赤文字は伊作家と敵対関係。
島津勝久 〈1519-1527〉(1503~1573)奥州島津・又八郎・修理大夫・忠兼・忠廉。島津武久(忠昌)の息(3男)。島津本家(奥州家)第14代。二人の兄(忠治・忠隆)の死により家督相続。1535年義弟の島津実久に敗北。養子に伊作島津家・忠良の息・島津貴久。家中の内紛により実久が実権を得て失脚。真幸院の北原氏を頼る。大隈、豊後を放浪。

<島津家本宗家老職>
▽本田親尚 (*)宗親の息。本宗家の重臣・島津国家老。勝久の後見人。親・島津忠良路線で、薩州島津実久と対立。1525年大隈守護代・本田兼親を討ち橘木城を奪取。息に親貞。

▽園田実明 (*)清左衛門・筑後守・実祐。1527年島津忠良・貴久親子の脱出を支援。1537年島津実久軍を破る軍功。娘婿に島津義弘。小野城主。

<島津家本宗奥州家老一門衆>
⇔↓▽島津実久 (1512~1553)薩州島津家当主。忠興の息。島津勝久の家老。姉婿が本家の勝久。1500年に父・忠興は加世田島津忠福を討伐。1526年勝久が専横する実久を嫌う。貴久の家督相続に反対し伊作島津家と抗争。敗北し降伏臣従。出水に蟄居する。息に義虎。<肥後国境の重鎮。菱刈、東郷、入来院、祁答院氏の抑え。>

▽島津運久 (1468~1539)相州島津・阿多・相模守・忠幸・一瓢斎。相州家・友久の息。島津善久の室を迎える。忠良を養子に家督を譲る。阿多に隠居。1529年勝久に忠良・貴久親子との和睦を申し入れた重臣のひとり。養子に忠良。

▽島津善久 (1468~1494)伊作島津。久逸の息。新納是久の娘婿。早世する。息に忠良。

▽島津忠将 (1500~1540)鹿籠島津。秀久の息。東郷重清との「中郷椙島の合戦」に弟の島津忠起、家老・町田忠林とともに戦死。息に久定。<伊作島津忠将と同名。子孫は吉利姓。>

<島津家本宗奥州家老 国人衆>
▽肝付兼演 (1498~1552)かねひろ。伴姓、肝付家庶流。島津勝久の家老職。大隈国溝辺・加治木城主。1529年勝久に忠良・貴久親子との和睦を申し入れた重臣のひとり。1549年北郷忠相、忠親の説得に応じ島津貴久に帰順。加治木を安堵される。息に肝付兼盛。<肝付氏は大隈国の大勢力。兼演は薩摩よりに領地を持つ分家。>

▽島津忠朝 (1466~1540)豊州島津。忠廉の息。1529年勝久に忠良・貴久親子との和睦を申し入れた重臣のひとり。大隅串良の領主、平田兼宗を討伐。伊東祐国との「飫肥城防衛戦」に祐国を討取る軍功。息に忠広。飫肥城主。<孫の代に北郷家と併合。>

▽新納忠勝 (1491~1549)島津一門衆。忠武の息。大隈志布志城主。1529年勝久に忠良・貴久親子との和睦を申し入れた重臣のひとり。1538年島津忠朝、北郷忠相、肝付兼続の攻撃で滅亡。<樺山、北郷と同じ代に分家。>

▽禰寝清年 (1510~1559)ねじめ。1529年勝久に忠良・貴久親子との和睦を申し入れた重臣のひとり。肝付氏に従う。

▽本田薫親 (*)ただちか。島津(宗家)家臣。大隈清水城主。1529年勝久に忠良・貴久親子との和睦を申し入れた重臣のひとり。本田実親と抗争し、貴久の命で伊集院忠朗に討伐される。息に親兼。

▽樺山幸久 (*)島津一門衆。1529年勝久に忠良・貴久親子との和睦を申し入れた重臣のひとり。1541年島津忠広・北郷忠相と抗争。1549年菱刈・北原氏との抗争に貴久が仲介。<新納、北郷と同じ代に分家。>


島津一門・薩州家


赤文字は伊作家と敵対関係。<豊州家と同じ代に分家。>
⇔↑島津実久 (1510~*)薩州島津・八郎左衛門・薩摩守。薩州島津家当主。忠興の息。島津(宗家)勝久の一門家老。姉婿が本家の勝久。勝久の跡職を望み拒否され、敵対関係となる。貴久の家督相続に反対し伊作島津家と抗争。1526年再び島津勝久を擁立し、島津忠良・貴久親子と抗争。1538年加世田を防衛し、肥後掃部・井尻四郎・宮原隼人を討つ。1539年加世田城を攻略され、「柴原の合戦」に敗北し隠居する。薩摩出水を領する。薩州島津家。息に義虎。

▽島津忠辰 (*~1539)薩州島津・中務大輔。忠興の息。実久の弟。1539年市来城に籠城し、貴久と敵対。島津久定に討たれる。<義虎の嫡男に同名の忠辰あり。>

▽島津忠兼 (*~1565)薩州島津。忠興の庶子。薩摩山門院野田領主。1565年天草領長島を攻略。薩摩島津領とする。讒言により甥・島津義虎に討伐される。<自立したため誅殺されるか。>

▽島津忠房 (*)薩州島津。島津成久の息。忠興の弟。市来地頭の多田頼益を誅殺。新納忠躬の補佐で市来城主。島津貴久の攻撃に降伏。

(第2・第3世代)
▽○島津義虎 (1536~1585)薩州島津・又三郎・八郎左衛門・薩摩守・晴久・陽久・義利・義俊。島津実久の息。島津勝久の家老。薩摩和泉の領主。島津義久の娘婿。1553年に家督相続。1563年上洛し13代将軍・足利義輝に謁する。のち一貫して島津貴久・義久に従う。1581年肥後国相良義楊との「水俣の合戦」に先陣。1584年島原に進攻。「島原の合戦(沖田畷の合戦)」で島津家久に従い竜造寺軍を撃破する。薩摩出水を領する。薩州島津家。息に忠辰、次男・忠隣は島津歳久の養子、忠清、忠栄、忠豊。

▼島津忠辰 (*)薩州島津・泉又太郎・忠永。島津義久に対抗。

▼島津忠隣 (1569~1587)薩州島津。義虎の息(次男)。島津歳久の養子となり日置島津を相続。筑後「鷹取城攻略」、筑前「岩屋城攻略」に軍功。「根白坂の合戦」に戦死。息に常久。

(薩州与力国人)
伊集院重貞 (*~1527)島津一門衆。親・実久派。加治木城主。1526年相州島津の貴久守護就任に反抗。

↓島津昌久 (*~1527)大田島津・下野守。親・実久派。薩州分家。島津忠良の姉婿。帖佐城主。1526年相州島津の貴久守護就任に反抗。1527年伊集院重貞とともに挙兵。

(薩州家臣)
川上忠克 (*)島津一門衆。1526年相州島津の貴久守護就任に反抗。実久の命で、隠居した勝久を復帰させる。

山田有親 (*~1533)島津一門衆。薩州家臣。1533年島津忠良の説得により貴久に従うも忠良の誤解で誅殺される。日置城主。

▽山田有徳 (*)蔵人。有親の息。市来地頭。川上氏との抗争に軍功。串木野地頭。息に有信。

桑波田栄景 (*~*1533)孫六。日置郡の豪族。南郷城主。景元の息。親・薩州実久派。1533年島津忠良により居城陥落。逃亡する。

町田久用 (*)島津一門衆。盛久の息。伊集院一宇治城主。親・薩州実久派。1536年島津忠良により居城陥落。息に忠林。<伊集院と同じ代に分家。>

新納忠苗 (*)武蔵守・常陸介。親・薩州実久派。市来城主。1539年降伏。


戦国大名 伊作(相州)島津家

紫文字は伊作島津家と同盟、赤文字は伊作家と敵対関係。
⇔▲島津忠良 (1492~1568)伊作島津・日新斎。相州家。島津善久の息。伊作島津第10代。1494年祖父・久逸、父・善久の死により家督。1506年伊作当主。母の再婚者の養父・島津運久から相州家を継承。1526年息・貴久を勝久の養子に送る。1536年伊集院城を攻略。1539年島津実久の居城・加世田城を攻略。1542年加治木城攻略。婿に肝属兼続、樺山善久、種子島時堯、肝属兼盛。<伊作・相州が合体し地盤。>

▽春成久正 (*~1559)兵庫助。久清の息。1538年加世田攻略に軍功。加世田地頭。1559年日向「飫肥城攻略」に戦死。

島津貴久 〈1527-1566〉(1514~1571)伊作島津・修理大夫・陸奥守・伯囿。伊作島津忠良の息。1527年本家・島津勝久の跡職を相続。1537年薩州家・島津実久を鹿児島城に破る。島津本家を実力で相続する。1549年肝付兼演が降服する。1554年入来院叛乱。1556年菱刈重豊、蒲生範清を降す。1561年肝付兼続を破る。

弟子丸* (*~1554)播磨守。貴久側近。1554年蒲生氏との抗争で北村城主・北村清康の計略により敗走。貴久を守り戦死。

指宿* (*~1554)豊後守。貴久側近。1554年蒲生氏との抗争で北村城主・北村清康の計略により敗走。貴久を守り戦死。

島津忠将 (1520~1561)伊作島津・垂水島津・又四郎・右馬頭・政久。忠良の息(次男)。島津貴久の弟。1547年本田薫親の「清水城攻略」。1554~57年「蒲生攻略」に軍功。清水領主。垂水島津家の祖。1561年肝付氏の大隈福山「廻城攻略」に戦死。42歳。息に以久。

島津尚久 (1531~1562)伊作島津・宮之城島津。忠良の息(3男)。島津貴久の弟。薩摩「岩剣城攻略」に軍功。1559年日向都城の北郷忠親を救援に派遣される。息に忠長。<頴娃久虎とともに、薩摩南端の抑え。>

1539年島津忠良が薩摩半島平定。1552年島津貴久が任官。

(準一門)
↑島津昌久 (*~1527)大田島津・政雅。薩州島津分家。延久の息。島津忠良の姉婿。1526年「帖佐攻略」に軍功。帖佐地頭。1527年加治木の伊地知重貞とともに実久に通じ誅殺される。

▽島津忠弘 (*)大田島津・周防守・忠続・忠元。1537年「加世田攻略」に軍功。のち阿多地頭。阿多内城主。

(島津一門 国人衆)鹿籠島津・吉利島津。
鹿籠久定 (1519~1557)島津久定。島津一門衆。鹿籠・島津忠将の息。「伊集院攻略」、「加世田攻略」、「市来攻略」に従軍し軍功。のち貴久の命で吉利に転封。<子孫は吉利姓。>

↓○吉利忠澄 (*)鹿籠島津・島津忠澄・下総守。島津一門。久定の息。1558年貴久の命で吉利姓に改姓。吉利家第4代。1576年日向「高原攻略」に従軍、1578年「耳川の合戦」に軍功。1582年肥後「日比良城攻略」に従軍。入野地頭。塩見地頭。

(島津一門 国人衆)
相州・伊作と同じ代に分家した近い間柄。

喜入忠俊 (*)指宿島津・島津忠俊。島津一門衆。祖父の代に頴娃兼洪に指宿領を奪取される。忠誉の息。忠将に従う。1539年「市来城攻略」に従軍し軍功。赤水郷を領する。息に喜久。

↓○喜入季久 (*~1588)指宿島津・式部大夫・摂津守・忠賢・休宅。島津一門。元・勝久の臣。喜入(島津)忠俊の息。「横川攻略」に軍功。のちに薩摩鹿籠を領し山之城城主。鹿籠地頭。上洛し将軍に就任した足利義昭に謁した。息に久道、三郎四郎、忠続。

(島津一門 国人衆)
頴娃兼賢 (1531~1569)兼堅。薩摩頴娃領主。兼洪の息。兄・兼友の死により家督。島津氏と同盟。1576年日向「高原城攻略」に従軍。1578年「高城川・耳川の合戦」に軍功。息に兼有、兼慶(久虎)。

↓○頴娃久虎 (1558~1587)小四郎・左馬介・兼慶。伴姓頴娃氏。薩摩頴娃・指宿の領主。頴娃氏第7代当主。兄・兼有を討ち家督。1576年日向「高原城攻略」に従軍。1584年有馬「千々輪攻略」に軍功。1584年「島原の合戦(沖田畷の合戦)」に軍功。30歳。息に久音。<抜群の軍功を残し早世。薩摩南端の抑え、海峡を挟んで大隈に禰寝氏。>

(島津一門 国人衆)豊州島津 
<薩州家と同じ代に分家した近い間柄。>

▲島津忠広 (*~1550)豊州島津。忠朝の息。飫肥城主。伊東義祐の家臣・長倉祐有の謀反を支援。家督を養子の(北郷)忠親に譲り、日向福島に隠居。<大田島津に同名の島津忠弘(阿多地頭)あり。>

↓○北郷忠親 (1504~1571)島津忠親・豊州島津・秦心。日向の豪族、北郷忠相の息。忠広の養子。島津忠良と結び伊東氏に対抗する。1548年伊東義祐に攻撃される。1558年肝付兼続に松尾城を奪取される。1568年伊東義祐に攻撃され都城から退去。飫肥城主。日向都城城主。

▽島津忠隅 (*)豊州島津家家老職。久器の息。忠朝、忠広、忠親の三代に出仕。1538年「大崎城攻略」、1545年「鬼ケ城防衛戦」に伊東軍に敢闘。

▽平山忠智 (*~1559)豊州島津家家老職。久丘の息。肝付兼続との「伊崎田樽ヶ原の合戦」にて戦死。日向松山城主。

▽島津朝久 (*~1593)豊州島津・北郷朝久。忠親の息。義弘の娘婿(元・北郷相久の室)。「耳川の合戦」、筑前「岩屋城攻略」に従軍。秀吉の「九州征伐」ののち平房・市成の領主。朝鮮に従軍し、巨済島にて陣没。息に久賀。

(準島津一門 国人衆)北郷家 日向南端の国人領主。
<樺山、新納と同じ代に分家。>

北郷忠相 (1487~1559)日向庄内の豪族。飫肥城主・島津忠朝と同盟し、伊東尹祐と抗争。忠良に降伏した島津実久に従い、貴久の守護を支持。1549年肝付兼演の島津貴久帰順を仲介。日向庄内城主。息に忠親、忠孝、久厦。

↑○北郷忠親 (1504~1571)豊州島津・島津忠親・秦心。北郷忠相の息。のち豊州家・忠広に入嗣。日向の伊東・肝付の両氏と抗争。<大隈肝付氏と国境を面する。>

北郷時久 (1530~1596)豊州島津・島津忠豊・二郎・右衛門・一雲。日向庄内の豪族。島津一門。北郷忠親の息。弟に島津朝久。北郷家第10代。本田薫親の娘婿。島津貴久に従い伊東・肝付両氏の討伐に軍功。息に相久、忠虎、三久。

↓▽北郷相久 (1554~1579*1581)豊州島津・島津相久・次郎・常陸介。島津義弘の娘婿(のち朝久の室)。1573年肝付氏と抗争。1578年「耳川の合戦」に従軍。のち父と対立し自害。

↓▽○北郷忠虎 (1556~1595)豊州島津・島津忠虎・弾正忠・讃岐守。大友家豊後攻略に肥後口から侵攻。

↓▽北郷三久 (1573~1620)宗次郎・加賀守。伊集院忠棟の娘婿。上井覚兼の娘婿。

北郷久盛 (*~1578)豊州島津・島津久盛・蔵人。高代地頭。久厦の息。1578年「高城川・耳川の合戦」に囮役を務め戦死する軍功。

(島津一門 国人衆)伊作島津 準一門。
<新納、北郷と同じ代に分家。>

樺山善久 (1512~1609)島津・助太郎・安芸守・幸久。島津一門。樺山信久の息。島津貴久の姉婿。1525年大隈国・本田薫親に姶良郡小浜を奪取される。1527年本田氏と敵対する島津忠良に服属する。同年、島津(宗家)勝久に攻撃される。1539年「市来城攻撃」に従軍。1541年居城の大隈国「生別府城攻防戦」本田薫親を撃退。1549年伊集院忠蒼とともに島津貴久の奉行。文武両道の武将。息に忠副、忠助。

▽樺山忠副 (1537~1557)島津・助太郎。島津一門衆。善久の息。忠良の孫。菱刈氏との合戦に負傷し死没。弟に忠助。

▽樺山忠助 (1540~1609)島津・兵部大輔・安芸守・忠知。島津一門衆。善久の息。忠良の孫。村田経定の娘婿。1573年肝付氏との抗争に軍功。日向穆佐地頭。息に規久。

▼樺山規久 (1557~1593)島津・兵部大輔。島津一門衆。忠助の息。島津家久に従い「耳川の合戦」に軍功。「沖田畷の合戦」、「豊後侵攻」に従軍。朝鮮に渡海し陣没。日向穆佐城主。
 
(島津一門 国人衆)伊作島津 準一門。

入来院重聡 (*)北薩摩国人領主。入来院第11世。薩摩国入来院領主。島津貴久は娘婿。島津義久・義弘・歳久は孫。1537年島津忠良・貴久と結び伊集院「竹山城攻略」に従軍。1539年市来「平城攻略」に軍功。薩州家・島津実久と抗争し、隈之城、平佐城、宮里城を奪取する。息に重朝。

▽入来院重朝 (*)北薩摩国人。薩摩国入来院領主。重聡の息。島津貴久の義兄弟。息に重嗣。

↓入来院重嗣 (*~1600)又五郎・加賀守。北薩摩の国人領主。島津貴久に対抗した重朝の息。入来院重豊の父。1554年島津貴久方の肝付兼演・兼盛の「加治木城攻撃」に参加。1569*1570年降服臣従する。薩摩隈之城主。<東郷氏と国境を面する。>

↓▽入来院重豊 (*~1583)重嗣の息。日向侵攻に軍功。養子に島津以久の息・重時。

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島津家の北征・九州統一戦


島津義久の家臣団 (島津家第2世代)


 ○内之地頭(私設軍的、内与力衆)付属

 
島津義久 (1533~1611)伊作島津・忠良・義辰・修理大夫・入道竜伯・龍伯。島津貴久の息(長男)。母は入来院重聡の娘。島津16代当主。1564年修理大夫任官。菱刈・渋谷の有力国衆を討ち薩摩統一。1576年高原城攻略。1578年「耳川の合戦」高城に大友義鎮を破る。1581年肥後侵攻。1585年豊後「戸次川の合戦」に勝利。1586年北部九州制圧戦「岩屋城攻略」。豊臣秀吉に降服。1587年薩摩を所領安堵される。1592年文禄の役に、家臣・梅北国兼の叛乱(朝鮮出兵拒否)。1595年秀吉から10万石、義弘に60万石を安堵される。1599年島津忠恒、伊集院忠真の叛乱を鎮圧。

↓○島津義弘 (1535~1619)伊作島津・兵庫頭・忠平・義珍・入道惟新・惟新斎。島津忠親の養子。島津貴久の息(次男)。母は入来院重聡の娘。1554年「岩剣城攻略」に初陣。1564年伊東義祐に今浜城を攻囲される。「木崎原の合戦」に軍功、伊東祐安を破る。1572年「木崎原の合戦」に伊東義祐を破る。1578年「耳川の合戦」高城に大友義鎮を破る。1585年豊後「戸次川の合戦」に勝利。1585年兄から家督を譲渡される。息に久保、忠恒、忠清。

▽○島津歳久 (1537~1592)伊作島津・日置島津・又六郎・左衛門督。島津貴久の息(3男)。母は入来院重聡の娘。1563年「横川城攻略」。1566年「三之山攻略」。1572年「小浜攻略」。1580年薩摩祁答院領主。虎居城主。文禄の役に出陣せず、「梅北の反乱」の黒幕として秀吉に疎まれ自害。日置島津の祖。養子に義虎の次男・忠隣。

▽○島津家久 (1543*1547~1587)伊作島津・永吉島津・中務大輔。島津貴久の息(4男)。母は本田親康の娘。1578年大友義鎮の日向侵攻に高城城1100兵で守備。1578年「高城川・耳川の合戦」に大友軍を撃破する。1580年日向砂土原城主。1584年「島原の合戦(沖田畷の合戦)」で3000兵で竜造寺軍を撃破する。1585年豊後「戸次川の合戦」に勝利。1586年北部九州制圧戦、日向本軍30000兵の大将。筑前国「岩屋城攻撃」。羽柴軍降伏。秀長に毒殺される。44歳。息に豊久、忠直、久雄。

↓○島津以久 (1550~1610)垂水島津・佐土原島津・右馬頭・征久・宗恕。貴久弟・島津忠将の息。垂水島津家。入来院重豊は姉婿。島津忠長は妹婿。1584年「島原の合戦(沖田畷の合戦)」で島津家久に従い竜造寺軍を撃破する。佐土原島津の祖。息に彰久、忠興。

▽島津彰久 (1567~1595)垂水島津・佐土原島津。以久の息(長男)。島津義久の娘婿。1584年「沖田畷の合戦」に軍功。朝鮮に渡海し陣没。

▽入来院重時 (*~1600)垂水島津・島津重時・鎌三郎・弾正少弼。佐土原島津。薩摩国国人領主。島津以久の息、入来院重豊に養子。「関ヶ原の合戦」に従軍し戦死。島津義虎の五男・重高を養子とする。

○島津朝久 (*~1593)豊後守。豊州島津家。北郷忠親の跡。1577年日向宮崎地頭。1578年「高城川・耳川の合戦」に大友軍を撃破する。1581年島津義弘の副将として従軍、相良氏の水俣城を攻囲。1586年北部九州制圧戦、日向搦め手軍20000兵副将。筑後攻略軍の副将。朝鮮に渡海し陣没。息に久賀。

○島津忠長 (1551~1610)宮之城島津・図書頭・紹益。貴久弟・島津尚久の息。一門・佐多忠常は姉婿。喜入久通は妹婿。「水俣城攻略」、島原「沖田畷の合戦」に軍功。1586年北部九州制圧戦、日向搦め手軍20000兵の将。筑後攻略軍の大将。高橋紹運の岩屋城を攻略する。宮之城島津の祖。「泗川の合戦」に軍功。「関ケ原の合戦」後に家康と外交交渉。息に忠倍、久元。


(伊作島津一門・宿老家)伊集院大和守家。
<島津一門。町田家と同じ代に分家。>
伊集院忠朗 (1501~*)源四郎・大和守・孤舟。島津一門衆。伊作島津家の執事。忠公の息。相州・島津忠良からの臣。<老中1539~1556>。1539年平田宗秀を降す。1541年大隈国「生別府城攻防戦」に本田薫親を撃退。1548年大隈国「咲隈城攻防戦」に本田薫親を撃退。大隈姫木地頭に任命される。1549年肝付兼演・東郷重治・入来院重朝を「吉田城攻防戦」で撃退、「黒崎川の合戦」に勝利する。上井為秋、肝付兼演を調略帰順させた。

伊集院忠蒼 (1525~)右衛門大夫・掃部助・大和守・忠倉。島津一門衆。島津貴久の老中職。<老中1558~1562>。伊集院忠朗の息。1549年樺山善久とともに奉行。1549年肝付兼演・東郷重治・入来院重朝を「吉田城攻防戦」で撃退、「黒崎川の合戦」に勝利する。肝付兼演を調略帰順させる。大隈高山、大隈鹿屋地頭。

伊集院忠棟 (1550~1599)右衛門大夫・掃部助・忠金・幸侃。島津一門衆。伊集院忠蒼の息。相州・島津忠良の家老・忠朗の孫。島津義久の老中職。<老中1566~1587>。1578年「耳川の合戦」高城に大友義鎮を破る。1584年「沖田畷の合戦」に島津家久に従い竜造寺軍に勝利。秀吉に重用され日向荘内8万石を与えられる。朝鮮の役に不振な動きを国許でしたということで島津忠恒(家久)に誅殺される。日向飫肥南郷地頭。

伊集院忠真 (1568~1602)源次郎。島津一門衆。伊集院忠棟の息。日向飫肥南郷地頭。日向都城城主。1599年父の死後、謀反「荘内(庄内)の乱」。家康の仲介で赦免されるが、島津忠恒(家久)に誅殺される。

(伊集院家 家老庶家)
伊集院久通 (*~1587)島津一門衆。今給黎伊集院分家。久昌の息。牛根地頭。市成地頭。

▽伊集院久治 (1534~1607)三郎兵衛・下野守。島津一門衆。伊集院久通の息(次男)。<老中1591~1605>1568年薩摩「堂ヶ崎の合戦」に菱刈・相良軍に島津義弘救援で軍功。1580年肥後「矢崎城攻略」、「綱田城攻略」に従軍。1584年筑前「神代攻略」。1586年豊後「緒方城攻略」に従軍。1605年島津義久と対立して隠居。大隈高山地頭、薩摩桜島地頭、薩摩市来地頭、薩摩出水地頭、日向福島地頭。

伊集院久宣 (1530~1587)美作守。島津一門衆。伊集院忠胤の息(3男)。忠朗の従兄弟。「蒲生攻略」、「馬越城攻略」、「高原攻略」に軍功。清武地頭。肥後攻めで活躍。1582年肥後「日比良城攻略」に従軍。豊後「戸次川の合戦」に戦功。島津家久の与力として、大友家の豊後に乱入。「九州征伐」に豊後鶴崎城からの退却戦で戦死。日向清武城主。

伊集院久春 (1545~1616)肥前守・久信・元巣。島津一門衆。久次の息。「横川攻略」、「馬越城攻略」に軍功。横川地頭。義弘の家老職。朝鮮に従軍。「庄内の乱」鎮圧に従軍。蓬原城主。

(島津忠良の四天王)

川上久朗 (1536*1537~1568)左近将監。島津一門衆。串木野城主。元・薩州島津家家老の川上忠克の息(次男)。島津家庶流。島津義久の側近。谷山地頭。「島津四天王のひとり」。1568年島津義弘に従い相良方の赤池長任の拠る「大口城攻略」に、菱刈・相良軍に敗北し重症。戦死する。息に久辰。
新納忠元 (1526~1610)貴久・義久の奏者。島津一門衆。「島津四天王のひとり」。菱刈氏攻略に軍功。1569年大口地頭。1572年「木崎原合戦」に軍功。1580年肥後阿蘇領に侵攻、肥後「矢崎城攻略」に軍功。1581年大口城主。水俣城の相良義陽を攻略。1582年肥後「日比良城攻略」に従軍。1584年「沖田畷の合戦」に島津家久に従い竜造寺軍に勝利。85歳。息に忠尭、忠増。

鎌田政年 (1514~1583*1587)刑部左衛門・尾張守・政房・政平。政辰の息。島津一門衆。「島津四天王のひとり」。1557年蒲生範清攻撃に従軍。1557年大隈帳佐地頭に任命される。直之地頭。1568年「馬越城攻略」に軍功。1580年肥後阿蘇領に侵攻、肥後「矢崎城攻略」に軍功。1581年相良義陽との抗争に肥後「水俣城攻囲」に従軍。70歳。息に政広。<↓直之地頭10将のひとり>

肝付兼盛 (1533~1578)加治木肝付。肝付家庶流。大隈国加治木の国人。肝付兼演の息。島津忠良・菱刈重根の娘婿。「島津四天王のひとり」。1555年島津貴久に従い蒲生氏を攻撃。1568年島津忠良の軍功四将として賞される。加治木城主。息に兼寛。<嫡流の肝付兼亮の弟・肝付兼護とは別人です。>

島津義久の家臣団と軍団 

1581年対相良義陽・肥後水俣城攻囲陣立『旧記雑録』後編。
 直之地頭 (1557年から開始、直参の領主化)
 :九州支配65人の外城地頭。
(直之地頭 10将)
↑鎌田政年(四天王・牛根地頭)
・上井覚兼(宮崎地頭)
・鎌田政近(都於郡地頭)
・比志島義知(曾井地頭)
・山田有信(日向高城地頭)
・鎌田政心(財部地頭)
・市来家親(松山地頭)
・平田宗張(穂北地頭)
・宮原景晴(串木野地頭)
・新納忠家(不明)。

上井薫兼 (*)諏訪・武蔵守。本田薫親の家臣。諏訪為秋の息。叔父に親秋。1548年父・諏訪為秋が島津貴久に降服。大隈国姶良郡上井領主。1553年薩摩永吉地頭に抜擢される。1580年息・覚兼の日向入りに従い日向洲崎城に隠居。息に覚兼、秀秋。

上井覚兼 (1545~1589)諏訪・神五郎・神左衛門・伊勢守・為兼。薫兼の息。1573年に家督相続。1561年大隈国「廻城攻略戦」。1567年薩摩「馬越の合戦」。1574年日向「牛根城攻撃」。1576年日向「高原城攻撃」。1578年日向「石城城・高城城攻撃」。1580年日向宮崎地頭。1581年島津義弘の副将として肥後水俣城主・相良義陽を攻撃。1586年筑前国「岩屋城攻撃」で負傷。秀吉の「九州征伐」に羽柴秀長に降服。45歳。内之地頭。

鎌田政心 (*)外記・筑前守。鎌田政盛の息。鎌田政近の養父。薩摩百次郷地頭。大隈財部郷地頭。1581年相良義陽との抗争に肥後「水俣城攻囲」に従軍。1584年「島原の合戦(沖田畷の合戦)」に従軍。1586年筑前国「岩屋城攻撃」に従軍。養子に政良。

▽鎌田政近 (1545~1605)又七郎・図書助・出雲守。鎌田政勝の息。鎌田政心・政良の養子。義久の老中。1557年大隈志布志地頭。1578年日向都於地頭。1578年大友家との前線、日向高城城を守備する。島津家久とともに「高城川・耳川の合戦」にて大友軍を撃破する。1586年筑前国「岩屋城攻撃」に従軍。息に政虎、政富。

比志島義基 (*)島津家の水軍の将。豊後侵攻に水軍を率いて海上を制圧。1581年相良義陽との抗争に肥後「水俣城攻囲」に従軍。

山田有信 (1544*1549~1609)越前守・民部少輔・入道理安。島津(宗家)勝久の臣、山田有徳の息。1577年日向新納院高城地頭。1578年大友家との前線、日向高城城を守備する。島津家久とともに1578年「高城川・耳川の合戦」にて大友軍を撃破する。1581年相良義陽との抗争に肥後「水俣城攻囲」に従軍。筑後「堀切城攻略」に軍功。島津義久降服後も秀吉軍に反抗。戦後、秀吉直参として天草4万石を与えられるが返上。息に有栄。

市来家親 (*)小四郎・玄蕃左衛門。市来家朗の息。1583*84?年伊集院忠棟に従い、肥後「相良氏攻略」に軍功。大隅松山地頭。1581年相良義陽との抗争に肥後「水俣城攻囲」に従軍。

平田宗張 (*~1587)新左衛門。元・薩州島津家老家。平田宗茂の息。伊東義祐滅亡後、日向穂北地頭。穂北城主。1581年相良義陽との抗争に肥後「水俣城攻囲」に従軍。「豊後侵攻戦」に島津義弘に従い新納忠元とともに肥後口。

宮原景晴 (*~1624)仁礼景晴。景次の弟。阿久根地頭。高尾野地頭。串木野地頭。1581年相良義陽との抗争に肥後「水俣城攻囲」に従軍。

<新納忠家?>
新納忠尭 (1554~1583)次郎四郎・刑部大輔。島津一門衆。「四天王」忠元の息。有馬氏後援のため川上忠堅とともに島原に渡る。安徳城主。「深江城攻略」に戦死。息に忠光。

新納忠増 (*~1608)島津一門衆。「四天王」忠元の息(次男)。兄の死により家督。1584年「沖田畷の合戦」、「豊後征伐」、「肥後内乱」鎮圧に軍功。朝鮮に渡海。「関ヶ原の合戦」に従軍。大隅山田地頭。

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