平井俊徳

【村々探訪】高千穂郷の神話や歴史、伝説を求め、文献を読み、実際足を運び、地元の方々のお…

平井俊徳

【村々探訪】高千穂郷の神話や歴史、伝説を求め、文献を読み、実際足を運び、地元の方々のお話を聞くスタンスで、それらを文章化し、まとめる作業をしております。

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  • 平井俊徳の村々探訪 故事伝説・民話を巡る

    高千穂郷を中心とした村々の歴史を基に、自分で歩いて見たものや、聞いたこと。 そして、知識として得たことを紹介出来たらなと思っています。

  • 平井俊徳の鬼八研究ノート

    高千穂神社の主祭神とされる三毛入野命、別名『十社様』。 元からいた地主神である鬼八との戦いは三毛入野命が勝ち、高千穂に平和をもたらした。 しかしながら、高千穂で今なお愛されている鬼八の正体とは?

  • 平井俊徳の高千穂八十八社巡り

    高千穂神社を総社とする、高千穂郷八十八社を紹介していく

最近の記事

天孫降臨の地 高千穂

高千穂町が天孫降臨の地という事は言うまでもないが、今町民のどれくらいが、わが町高千穂は天孫降臨の地だと自信を持って言えるだろうか? 何となく、知ってはいるけど、どういう神話や伝承が残っていて、神社にはどんな神様が祀られているのか? 僕自身、全般に詳しいわけでもなく、まだまだ勉強している身であるが、改めて、ここ高千穂は天孫降臨の地である!と、自信を持って言えるように勉強していこうと思っている。 さて、天孫、瓊瓊杵尊が御降りになられる際、天之八衢(やちまた)において、全身が

    • 高千穂呪術廻戦物語その3

      さて、今までは高千穂に伝わる神事『猪掛祭』の説明。これが、呪術師とどう関係があるのかを説明してきた。 それでは、鬼八再生術、『猪掛祭』を始めた氏族は一体だれなのだろうか? これは、私の考えであるが、猿田彦と天鈿女を祭人とする荒立神社、ここ周辺を本組地区と言うのだが、ここには室町時代の十社御縁起によると、神社の後方の山を神呂木山といった。ここは男の神様がいたというが、考古学的に発掘すると、土器が出てくることから縄文時代より生活していた形跡もあり、また高千穂町立病院付近も本組

      • 高千穂呪術廻戦物語その2

        前回は鬼八と三毛入野命が呪術を駆使しながら戦いあい、三毛入野命の勝利で終わった話。また、鬼八、三毛入野命の素性を私の考察のもと、呪術との関わりを紹介させていただいた。 今回は引き続き、呪術との関わり、考察をまとめていきたいと思う。 鬼八は身体をバラバラに斬られ、それを埋められるが、何度埋めても甦ったという。 これは一説には、地元のいくつかの集落での豪族、要は『まつろわぬ者』を退治していったので、それを甦りと例えた説もあるが、呪術的な視点で考えるならば、蘇生術を使ったとも

        • 高千穂呪術廻戦物語

          以前記載した、三毛入野命と鬼八の戦い。 この中でも書いてある通り、神武天皇との東征の際、日向へ戻られた三毛入野命は神武天皇の兄である。 現在日之影町には、三毛入野命の伝承地が多い。 その、【日之影】と名付けられた由来として、鬼八という鬼が高千穂郷において、悪さをしていて、村人も困っていた。 鬼八は三毛入野命が向かっているという情報を得て、法術を使って大雨を降らせたという。 鬼八は色々な名を持っており、山野を駆け回ることから、【走健】(はせたける)とも言われ、また鎌倉期

        天孫降臨の地 高千穂

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        • 平井俊徳の村々探訪 故事伝説・民話を巡る
          75本
        • 平井俊徳の鬼八研究ノート
          14本
        • 平井俊徳の高千穂八十八社巡り
          18本

        記事

          西栄山浄専寺

          五ヶ瀬町三ヶ所宮の原にある西栄山浄専寺がある。 元和「げんな」元年(1615)後藤孫太夫という者が入道し、釈宗願といい、浄土真宗浄専寺を開基した。 第2代常清の時、明暦3年(1657)本尊木仏寺号御免となり、西栄山浄専寺となった。 木仏寺号とは、一寺となるために、本山から寺号が免許されなくてはならず、本山が木仏を下付する際に木仏裏書に寺号を記載して、願主に渡す事であるという。 より引用。 徳川時代には延岡妙専寺末寺であった。また、六条御殿の出入りも許され、御門鑑(ご

          西栄山浄専寺

          田の中の伯楽天様

          岩戸、東岸寺区、左右殿(そうどの)地区には、田の中に目立った石碑が建っている。 東岸寺とは名の通り、寺号が集落の名前にもなっており、元禄4年(1691)の仏閣法には「薬師、東岸寺村」と書かれているそうです。 開基は1200年頃後鳥羽上皇の第3皇子である寒厳禅師と言われ、天文14年(1545)に三田井越前守親武(三田井家最後の城主)が再建したとされています。 高千穂町内には寒厳禅師の開基といわれる寺が3つあり、ここ東岸寺、後川内(現浅ヶ部)にある徳玄寺、上野の竜泉寺である

          田の中の伯楽天様

          荒立神社 夏祭り

          例年7月29日には荒立神社において夏の大祭が行われる。 祭りに向けて、地元住民による駐車場の草刈りやしめ縄作り、茅の輪作りがある。 茅の輪は神社の拝殿入り口に飾られる。 茅の輪とは夏越の祓いとして、茅で作った輪を通る事で、身を清め、無病息災、家内安全を願うものである。 茅の輪くぐりは唱え詞を唱えながら8の字を描くように左回り、右回り、また、左回りとする。 由来は備後の国で暮らしていた蘇民将来(そみんしょうらい)という人物がここを訪れた素戔嗚尊(スサノオノミコト)をも

          荒立神社 夏祭り

          土持氏の第二の居城 西階城 再び

          改めて城廻りをしてみた。 以前まとめたものをまずはご覧いただきたい。 さて、ここは延岡市西階。 金堂ヶ池の北側に城跡がある。 ただし、看板はしっかりあるわけではないので正直分かりづらい。 この看板はテニスコートより横の道を登っていくと戦没者慰霊塔があり、そこから西側の山の中へ行く前にある。 よって、テニスコート側より目指す方が分かりやすいと思う。 このように、二の丸、本丸近辺には堀切や土塁が今でも残されており、人工的に敵の侵入を防ぐようになっている。 1番上の写真

          土持氏の第二の居城 西階城 再び

          佐藤越後守

          ついに天正6年、大友と島津の争いが始まった。 まずは秋月と繋がりがある吉村氏(旧姓が秋月氏)が守る玄武城を攻めた。これは、三田井氏を倒し高千穂を奪うため、土持氏と密に通じていたと評が流れていたからであるが、秋月氏は大友氏とも対立関係にあったものによるのが1番だと思う。 玄武城を落とした大友勢は島津方と通じている日向の入り口を阻む土持氏をは倒そうと縣の松尾城へ兵を向けた。 ところが、大友本隊が着く前に支隊が功を焦って先に攻め寄せた。これに高千穂勢も加わっていた。 すると

          佐藤越後守

          甲斐宗摂 其の2

          主君である三田井親武を討った不忠者である甲斐宗摂。 いろいろな説があるが、「高千穂治乱記」には 「もしそなたが協力してくれたら、私が太閤殿下に御とりなししましょう」 と言い、利を求め元種の策に同意した。 宗摂は三田井家の中でも重臣であり、城の中も知り尽くしている。 夜中に三田井親武公の御寝所へ忍び込み、手槍にて一突き、御首を討った。その後火を放ち、「三田井親武が首、高橋が軍兵討ち取ったり」と呼ばわった。 三田井家家臣有藤玄蕃頭信久も奮戦するも討ち死にした。享年28

          甲斐宗摂 其の2

          甲斐宗摂 其の1

          慶長4年(1599)高千穂48塁の一つである現日之影町の中崎城主、甲斐宗摂は縣藩主、高橋元種に攻められ、高千穂町と日之影町の堺、鶴の平で自決しようとしたところ、元種の追手、又助は切腹する前に首を落としたという。 これにより、戦国領主である甲斐氏は滅びた。 今でも日之影町大人地区では生前宗摂が好きだったという歌舞伎が伝承されて、大人神社に『宗摂八幡』として合祀され、村人からも慕われていたことが分かる。 さて、少ない資料の中で甲斐宗摂という人物がどのような人物であったのか、

          甲斐宗摂 其の1

          鬼八とヒメヒコ制について

          鬼八についてヒメヒコ制という視点から考察していきたいと思う。 ヒメヒコ制とは。 【ヒメ・ヒコ制】より …男首長への支配権の一元化を通じて古代国家の形成がすすむにつれ,この体制は急速に消滅していった。ヒメ・ヒコ制を廃するために,宗教権をもったヒメを召し上げる制度として実施されたのが采女(うねめ)制であった。一方沖縄では,各家から国家のレベルに至るまで,ピラミッド型の二重支配体制ができ上がり,女性が長く宗教権を握り続けた。… ※ 世界大百科事典内の采女の言及より引用 古

          鬼八とヒメヒコ制について

          土持氏の次の居城 西階城

          「延陵世鑑」(白瀬永年による歴史書 1799)によると、永享元年(1429)、土持全宣(やすのぶ)は、約100年間拠点にした井上城より宝坂城(西階城)へ移ったとある。 約16年間居城したという。 また、「延陵旧記」によると、土持日向守、大貫村に西かいの城を築城し20年居城したと記されている。 どちらにしても約20年という短い期間であったようだ。 災難が多く、松尾城へ移ったということだが、五ヶ瀬川と大瀬側に挟まれた立地であるから、その河川を外堀とし、外敵から防ごうとした

          土持氏の次の居城 西階城

          土持氏の最初の居城 井上城

          以前まとめた土持一族が築いたとされる井上城を紹介したいと思う。 土持氏についてはこちらをご覧いただきたい。 延岡市にある恒富中学校のちょうど真向かいに『天守山』という山がある。 入り口には案内看板もある。 城郭跡までは、およそ歩いて10分程だろうか。 正確な資料がないため、信憑性にはやや欠けるところもあるが、平安時代末期。 平家の専制政治に世の人たちの不満は爆発。 源頼朝が挙兵することとなるが、平家の全盛期時代より、土持一族は日向の国庁の官司の地位も得て安定した

          土持氏の最初の居城 井上城

          河内 亀頭山城

          高千穂町河内地区は竹田、肥後国への交通要衝であり、江戸時代には関所も設けられた場所である。 土持氏に代わり、延岡城主となった高橋元種は高千穂を攻めた。 三田井家家臣、甲斐宗摂と内応し三田井親武を滅し、仲山城は落城した。 その後も大野原亀山城も攻め滅ぼし、徐々に勢力を伸ばしていく。 文禄3年(1594)8月、高橋元種は河内にある亀頭山城を攻めた。 この城は、自然の丘陵を利用した山城で、周りにも太鼓番や分城をおき、堅固であり、大友島津の戦いの中、大友軍が日向国を目指す中

          河内 亀頭山城

          大火を免れた地蔵尊 集雲山龍泉寺

          大友宗麟勢は豊後より日向国、縣を目指した際、高千穂側から入ってきた別動隊は町内の寺社仏閣を焼き払ったという。 大友宗麟は熱心なキリスト教で、キリスト以外には神仏はないという考えにより、その他の寺社仏閣は邪教であると、縣までの道筋の寺社仏閣を焼き払っている。 町内の主な個所は、熊野神社、植野八幡社、二上神社、今山寺、鶏足寺、そして今回取り上げた龍泉寺である。 看板にもあるように、開山は仁皇82代鳥羽上皇の第3皇子出家得度された寒厳義尹鳳凰禅師(永平寺第4祖)と伝えられてい

          大火を免れた地蔵尊 集雲山龍泉寺