血筋絶やさん土持氏 その②
時は戦国。
南北朝時代、戦いに明け暮れた70年近い時代を乗り切った土持一族。
土地の支配、所有関係はすっかり乱れ、日向国では、12世紀末鎌倉幕府命により日向入りした伊東氏が急激に勢力を拡大し、土持氏とも婚姻関係を結ぶなど、領地を広げ、室町時代になると、更に土持氏との関係が悪化していく。
時代の流れと共に、土持一族は徐々に衰え始め、長禄元年(1457)「小浪川の合戦」において、財部土持氏、土持景綱は伊東氏に敗北、門川以下の領地を失ってしまう。財部土持氏の滅亡である。
その後は財部の地は土持に戻ることはなかった。
少し時代を戻すと、文安3年(1446)に松尾城が完成する。
伊東氏は更に北上し、臼杵郡も攻めようとする。
が、土持氏が県にて、それを防ぎ、伊東氏の臼杵郡進出は免れた。
伊東氏は県南の飫肥方面も攻めようと島津氏との戦いもあり、県を集中的に攻撃出来なかった事も考えられるが、伊東氏の思った以上に土持氏が強かったという事であろう。
そもそも土持氏が衰え始めたのは、南北朝時代に足利尊氏に力を入れ過ぎ、武将と、戦費を失いすぎたといわれている。また、伊東氏の婚姻戦略にかかり、伊東祐尭は妻も母親も土持、そして、息子も土持氏からの妻という事である。
それでも、伊東氏の侵略を防ぐ力を持っていたのは、土持一族の武士としての強き氏族であったということである。
15代土持親佐(ちかすけ)の代では、県の夏田にて、戦いが繰り広げられた。
これは松尾城の背後から攻めようとしたと思われるが、これも防がれ伊東軍は敗退する。
その後は膠着状態となり、伊東氏の要請により高千穂領主、三田井親武は和睦のために尽力し、土持高信に娘を嫁がせる事で停戦となった。
伊東軍は木崎原の合戦にて島津軍にも敗退し、伊東義祐は高千穂も通り、豊後へ逃れ大友に救いを求めた。
伊東義祐は寒さと飢えに震えながら、河内の小崎将監という者の家で2週間程滞在した事が分かっている。
伊東軍は、始めは122名ほどであったが、逃げる中で徐々に人も減り、河内へ来た頃には100人をきっていたという。主君の安全を願い、同行を断念し、その地に土着し、田原、上野地区に今もその子孫が残っているという。
河内にて大友の元へ使者を送り、年越しし、年明けには大友の使者が迎えに来た。
さて、いよいよ大友、島津の戦いが始まり、土持氏もその戦いに巻き込まれていくこととなる。
その頃、毛利氏は東に織田信長、西に大友宗麟に挟まれ困っていた所、大友を九州に留めておくために、島津を動かそうとして土持に近づいた。
一族の存亡をかけ、毛利の話にのった。
上野と田原の間にある玄武山城主の吉村惣右衛門種供に、土持親成は県の西側を押さえるため、秋月氏出身という事もあり、取り込んだ。
ところが、安定を図ろうとすると三田井氏は大友氏に『吉村謀反の志あり』と通謀されてしまう。
ついに大友は動いた。
まずは玄武山城。
詳細は以前のブログをご覧いただきたい。
https://note.com/kucky918/n/n47ec34a04189
その③へつづく
参考文献
高千穂太平記 西川功著
日向戦国史 土持一族の光芒 荒木栄司著
日向戦国武将物語 土持戦記 佐野量幸著
土持神社大祭記念講話 より