【大内家の野望 新生】 第3話:島津家征討戦 〜薩摩内城の戦い
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メールマガジン『ビジネス発想源 Special』にて約8年、400回にわたって連載し、AmazonのKindleストアで多く電子書籍化もされている、歴史から経営やマーケティングのヒントを学ぶビジネスコンテンツ『歴史発想源』。
今年7月に新発売となったコーエーテクモゲームスの歴史シミュレーションゲーム『信長の野望 新生』を使って、その第1章「大内二代篇」の状況から天下統一を目指す番外篇「大内家の野望 新生」を連載いたします。
▼第3話:島津家征討戦 〜薩摩内城の戦い
■薩摩の島津家と肥後の阿蘇家、同時に敵対する
大友家との決戦に集中していたら、大友家を滅ぼした時には薩摩の島津家が阿蘇家の岩尾城(熊本県山都町)を攻め取っていたため、いつの間にか大内家と島津家は隣接状態に。同盟期限が切れたら攻めようとしていた熊本の阿蘇家を攻められない。仕方がないので、ついに島津家に宣戦布告。
岩尾城には当主・島津貴久(しまづ たかひさ)が北上しており、約4000の塀を持つ。島津貴久は知略も統率も80台の名将であり、攻略も難航しそうだ。そこで北は大分の府内館、東は宮崎の縣城から、さらにギリギリ同盟期間中の阿蘇家の領土を通らせてもらって筑後から兵を回して西からと、3方向から総勢1万5000ぐらいで岩尾城を攻め立てる。
東西から攻めると、島津貴久も名将といえど一方しか対処できず、もう一方の大内軍は兵の少ない岩尾城に直接攻撃できてしまう。九州北部から次から次に塀を回して行って、ちゃっかり同盟勢力である佐賀の龍造寺家にも援軍で参加してもらったりして、城主の北郷忠相(ほんごう ただすけ)はついに降伏を申し出て開城! これで熊本への侵攻が可能になる。
そしてちょうど、熊本の阿蘇家との同盟期限が切れて、阿蘇家とは敵対関係に。隈本城(熊本県熊本市)の1城しか残っていない弱小勢力の阿蘇家は、後回しにしてしまうと島津家や龍造寺家が先に滅ぼしてしまう。その前に大内家が引導を渡してやらねばなるまい。
さて、史実では大内義隆が死亡してしまう「大寧寺の変」だが、その年である1551年がやってきた。その出現条件である「大内家が山口館を持っている」「毛利毛が健在である」といった条件は揃っていて、このままでは史実通りに大内義隆が死んでしまう。ちょっとインチキだが、ここは再現を「無効」とさせてもらって、大内義隆にはこのまま頑張ってもらう。
それから、阿蘇家や島津家を倒した後のことも考えないといけない。九州を制圧した後は四国にも手を伸ばすことになるが、今は同盟を結んでいる西園寺家のいる南伊予が四国への入口だから、同盟が切れたら倒さねばなるまい。
そこでその先の土佐の岡豊城(おこう城/高知県南国市)の長宗我部家と同盟を結んでおこうと、コツコツと親善を重ねていったのだが、信用が溜まっていざ同盟を結ぼうとしたら、「同盟」だけでなく「従属」も選べるようになっていた。
とりあえず「従属」を申し出てみると、当主の長宗我部国親(ちょうそかべ くにちか)が「何とぞよろしく頼み申す」と、大内家の従属勢力として傘下に入ることに。え、まだ一度も隣接したこともないのに、いいの……?
とりあえずこれで四国への道も開けそうだ。熊本攻略に専念しよう。隈本城には阿蘇家の当主・阿蘇惟豊(あそ これとよ)が7440の兵を持っているが、ここには知略が94・統率が89という九州屈指、いや全国屈指の名軍師である甲斐宗運(かい そううん)がいるため、苦戦するかもしれない。こちらが優勢とはいえ、大国・島津家との決戦を前に、なるべく兵の消耗は減らしたい。
岩尾城を奪ったことで熊本城を南からも攻められるが、南からは島津軍が北上しているようだったので、とりあえず弘中隆包を南に向かわせて牽制し、久留米城(福岡県久留米市)など筑後の軍勢を北から5000ほどで隈本城に向かわせる。
すると、当主の阿蘇惟豊が7000弱の兵を率いて隈本城から北へと迎撃してきた。誘い出されたな。隈本城を守るのは名軍師・甲斐宗運とは言え、城兵はわずかに480だ。その隙に、岩尾城から弘中方明らが総勢4000ほどで隈本城を直接狙う。
その間に佐賀の龍造寺家が島原半島の有馬家を攻めているようだ。対馬の宗家も滅ぼしていて、このまま日之江城まで取ってしまったら、龍造寺家はかなり大きな勢力となる。いま同盟関係の龍造寺家ともいずれは決着をつけないといけないが、まあ島津家との対決が先だ。黙認しよう。
東からの侵攻で隈本城が大ピンチに陥って、阿蘇惟豊も慌てて軍勢を戻したが、時すでに遅し。北と東から大内軍が隈本城に総攻撃をかけて、落城。大名としての阿蘇家は滅ぶことに。
当主・阿蘇惟豊をはじめとして、阿蘇家の臣下たちは大内けがごっそり飯抱えることに。その中には、名軍師・甲斐宗運の姿も。やったー、甲斐宗運が味方に加わってくれたぞー。
■島津家の本領・薩摩国へと攻め入る
いよいよ本格的に南九州へと征討だ。隈本城攻め終えた各将が出水城(鹿児島県出水市)を狙って進軍し、葦北郡(熊本県芦北町)まで攻め取った。島津軍は当主・島津貴久が7000ほどの兵を集めて出水城を守っていたが、大内軍にはいきなり出水城ではなく、人吉城(熊本県人吉市)へと進軍ルートを変更して急カーブさせる。
出水城の島津貴久隊に兵を回したため、人吉城を守る兵はわずかに800しかいない。島津貴久も「え、そっちに先に行っちゃうの!?」と慌てて、葦北郡を取り返し、そこで兵が削られてしまって7000から4000に減った部隊で大内軍を食い止めなければならなくなっている。
そこに続々と北から大内軍の各部隊を南に向かわせて、島津貴久がそれを食い止めている間に、先鋒の弘中隆包隊が少数の人吉城を強攻し、人吉城も大内軍の手に落ちた。これで熊本県域は完全制覇だ。
勢いに乗って出水城へと進軍。ちゃっかり天草郡も攻め取っていたので、海路を使った北からの侵攻も可能となり、さらに島原半島を攻め取っていた龍造寺家にも援軍を送ってもらう。島津貴久も5000ほどの兵を鹿児島でかき集めて北上してきたが、間に合わず出水城は陥落。
同盟勢力である日向国(宮崎県)の伊東家には、ちょくちょく薩摩国への進行をお願いしてきた。島津貴久が出水城救援に5000ほどの兵しか集められなかったのは、伊東家の南への侵攻に対処するためだったのだ。
すると元大友家臣の入田親誠(いりた ちかざね)が、「伊東家を吸収するべきでしょう。滅ぶ前に手を差し伸べるが主筋たる当家の役目かと」など、すごいこと言い始めた。え、そんなことできるの?
すると2ヶ月後「伊東家との折衝が完了し、以後は正式に我ら大内家の家中として働く運びとなりました」とのこと。当主の伊東義祐(いとう よしすけ)も「もはやこれまで。以後大内家の一武将として生きることといたそう」だって。マジかー。
これによって、伊東家が領有していた日向国の2城・都於郡城(とのこおり城/宮崎県西都市)と飫肥城(おび城/宮崎県日南市)は自動的に大内家のものとなった。これで、今まで伊東毛に攻めさせていた薩摩国や大隈国も、大内家が直接攻めることができるようになったぞ。
薩摩国には島津家の本城である内城(鹿児島県鹿児島市)、加治木城(鹿児島県姶良市)、伊作城(鹿児島県日置市)の3城が並んでいる。伊東家の吸収によって支配下となった日向国から加治木城を狙うと、当主の島津貴久が本拠地の内城から出撃。
そして出水城を攻略した時と同じ、北から伊作城に向かって進軍をすることで、島津貴久の子である島津義久の軍勢を伊作城に張り付かせておいて、いきなり内城へと急カーブ。内城にはわずか810の兵しか残っていない。
島津貴久隊は日向国からの侵攻に加治木城付近で、島津義久は大内軍の後続に備えて伊作城で張り付き、内城には全く兵が回せない。大内家の本拠地は山口なので、かなりの遠征になってそれほど多くの兵を送れなかったが、総勢6000ほどの兵でなんとか内城を攻略。これで加治木城と伊作城との連絡網も分断できるぞ。
大内軍による薩摩国での蹂躙に対処するため、島津家は大隅国(鹿児島県東部)からも兵を回さなければならなくなったが、そこへ日向国の飫肥城から陶隆房隊が高山城(鹿児島県肝付町)へと攻め込んで、手薄となった高山城は陥落。
これで南九州を制圧していた南方の雄・島津家も、伊作城と加治木城の2城を残すのみとなった。勢力一覧で見ると、島津家は最大兵力3960・現兵力1520という、六角家に次ぐ全国ワースト2位の凋落ぶり。
2城を合わせてもわずか1520の兵しかいない島津家だが、武将は22名もいて、島津貴久やその息子4兄弟をはじめ名将揃いである。ここは全力でいくしかない。日向国や大隅国などの南九州はもちろん、北九州方面からもほぼ全軍を薩摩国に向けて大進軍。島津家との最終決戦だ!!
【武将名鑑】(3)甲斐宗運(かい そううん)
阿蘇神社の大宮司である肥後国の戦国大名・阿蘇家の宿老。豊後国の大友家・肥前国の龍造寺家・薩摩国の島津家の九州三強の間に挟まれている中で、零細領主の阿蘇家を存続させていった軍師。甲斐宗運の死後、九州の勢力図は大きく崩れていく。
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【大内家の野望の雑談(3)】
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