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【闘病考】コロちゃん妻「肺がん」になる⑤.

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今年のクリスマスは1人ぼっち😭

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妻-愛してるよ🩷

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妻💕敦子-他界

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妻-他界 2024.08.28

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妻-2024.08.28 他界

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ユニコーン 妻-敦子作、流木、古布 2014.08.28 他界

2週間前

今日49日で、妻の遺骨をお墓の中に入れてきました。 さよならは言わない。 また、天国で出会って結婚するから。 なるべく早く逝くから待っててね👼 ❤️愛してるよ💏

1か月前

妻が他界して49日、朝から今も苦しい。こんなんであと15年も生きて行けるかな?こんなに辛いなら死んだ方が楽だよ。妻(うつ病)もそれで自死を選んだんだね。僕もいつかは逝くだろうから、天国でまた結婚して、楽しく暮らそうね。 心の中の涙が止まらない😭  

1か月前

更新されない想い出

5か月前

妻が介護うつで入院した。地元で一番有名な精神病院に通院、しばらくして入院になった。入院がひどいもので、まるで刑務所みたい。個室と言う約束が3日目に大部屋に移ってくれと言ってきた。断ると、では退院出来ますか?と脅かしのような事も言われた。結局妻は4日後に自死した。一緒に死にたかった

2か月前

雨のドライブ

バッハ エピソード27 妻マリア・バルバラの死

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震災の記憶

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60年経つと変わる感性

震災の記憶

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プラスチックの祈り(著:白石一文)【読書紹介は祈る。寒天と思ってたプラスチックがいつまで経っても出てこない】

ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ(2021年)【映画感想だってがんばってる。でも猫だし。ジャンプするのスキ!】

『赤い畳』

介護生活:団地の方々へのお礼の手紙

ボケ老人の戯言だと思ってスキップしていただきたいが、私にとって彼女は、16歳で出会った時のままずっと美人である。  年齢を重ねても、体重が高校時代の42kgから変わらなかったように美貌も維持していた。格別な努力はしていない。しかし、私の目には死後5日間はきれいなままだった

今日の土曜日出棺、明日は家族葬、そして月曜日に介護ベッドの返却や支払いなどが終わる。それ以外の仕事もありそうだが、いったんは、すべて忘れて休みたい。とにかく絶対的な睡眠が足りない。お昼寝したいが、ご焼香に来られる近所の方の対応で、時間もとれないし、緊張もしているのだ。

 私の我儘がなければ、つまり、せめて1週間の猶予がほしいという私の我儘がなければ、彼女は美しいままにあの世に旅立つことができたのにという悔いが残る。  時間は残酷である。死に顔になっていくのを見るのは辛かった。容貌は確実に衰えていった。頬もこけていった。  本当にごめんなさい。

妻が亡くなって1週間経つ。1週間前の今日が、嘘のような静けさである。今朝も4時過ぎに目が覚めた。12時過ぎに寝たので睡眠が足りない感じだったが、二度寝できなかったのでそのまま散歩に出た。6時前に帰ってきて、シャワーを浴び、洗ってあった食器を片付けたりしていた。

息子は食事の準備など以外は、部屋にこもって、仕事をしている。だから残りの家事は全部引き受けている。もしもこれが娘で、何でもしてくれる娘だとすると、私はやることが何も無くなる。そうすると、彼女の思い出に浸るだけになる。完全に鬱に逆戻りになる可能性大だ。だから、息子で良かったと思う。

  生きているかのような顔のままでの火葬であれば、それはそれで辛かったと思う。  彼女には申し訳ないが、5日目ぐらいから顔が少しずつ死人になっていくのを見て、もう楽にさせてあげたいとも思った。顔を見るのが、だんだん辛くなってきていた。彼女の容貌が衰えていくのを見るのが辛かった。

部屋のドアからのお棺を出すことは、私の苦労にもかかわらず無理ですということだった。私は、妻を一度外にだしてというようなことは避けたいと強く言った。寝室からベランダに出て、それからリビングに入れば、何とかなるでしょうということになった。またまた片付けが必要だったが、一安心である。

息子は数日かけて書いていた。私は、弔問のみなさんへの対応や部屋の掃除などの日常の仕事で精一杯で書く精神的な余裕も時間も持てなかった。とうとう、最後の夜に、彼女の遺影が飾られた会場の椅子に一人座り、彼女への手紙、絶対に読まれることのないラブレターを書いた。

noteのテキストの形式ではなく、「つぶやきの投稿」を使っているのは、まとまらない思考、断片的な記憶を書くのに適しているからである。少なくとも今の私にとっては、すごく助かっている。つぶやきの投稿は、若い人は、スマートフォンでやるのだろうが、私はパソコンでしかできない。

弔問に来ていただいた人の何人かから、出棺の時間を尋ねられた。数人だったので、4,5人の方に見送っていただけるのだなと思って嬉しかった。午後2時半、自宅から外にでると、霊柩車の周りには、2,30人の方が見送りの来られていた。それだけで泣いてしまった。

嵐のような日々が終わった。まだ手続きしないければいけないことは残っているが、取り敢えずは一段落である。noteに投稿する時間がようやくのことで持てたので、出棺から葬儀、そして、昨日のご近所さんへの挨拶の日々をメモしておきたいと思う。

葬儀の対応や公的な対応、親戚知人への連絡などは、すべて息子にやってもらっている。私では泣いていて話にならないからである。朝食は私が準備しているが、昼食と夕食は息子が作ってくれている。かなりボリュームがある食事だ。激ヤセというほどではないが痩せたので、それを気にしてのようだ。

妻が亡くなる10日前からの短時間睡眠が続いている。亡くなる前は、やむえなく数時間しか寝れなかった。亡くなった後は、夕食後、息子とビールとワインを呑みながら、ずっとお喋りをしている。そのことで心の安定化を図っている感じだ。いつも午前様だ。そして、午前4時過ぎには目が覚める。

葬儀屋さんは午後2時に来訪、午後2時半に出棺ということだった。とにかく横になっている状態で出棺してほしかったので、息子に葬儀屋さんに電話をしてもらった。電話では一度彼女をお棺の外に出し、玄関で再び入れるというような話だったが、それは絶対にやめて欲しかった。それで来てもらった。

散歩中、どうしても気になることがあった。それは、妻を安置していたのが、彼女の書斎であり寝室だったところである。よって、妻を出棺するには、立てなければいけないという葬儀屋さんの話である。私はただ臨席しているだけで、息子が話しているのを聞いているだけだったが、それは了解できなかった。

毎日の掃除、洗濯、食器洗い、片付けなど、身体を動かすのは、すべて私がやっている。夢中になって家事をやっている時には、妻のことを考えないで済む。というか、忘れていられる。作業中でも彼女とのエピソードなどが浮かぶと涙腺崩壊である。だから、息子で良かったと思う。

今は妻の死、妻の不在との折り合いがつかず、つまり、全然受け入れることができずに、依然として心が不安定である。自分の以前の「つぶやき」を読んだだけで泣き出す。平静には読めない。同じような内容の投稿にならないようにチェックしなければと思いながら、それが出来ない状態である。

記憶はすぐに風化していくし、今日はまだ覚えていることも絶対に1週間後には忘れる。だから、とにかくメモをしておきたい。ではなぜnoteを備忘録代わりに使っているのか。noteには公共性があるからだ。みなさんに読まれる可能性があるということで、精神の緊張を保つことができるのだ。

 私の我儘で、美しいままの顔で野辺の送りをすることができなかったこと、本当に申し訳なく思った。  身内だけの、生前の彼女をよく知る人たちばかりでの葬儀だったので、それほど気にはされていなかった。しかし、私のせいで彼女を美しいままで送ることができなかったことを激しく後悔した。  

「僕の身勝手でごめん」と心の中で謝り続けた。  亡くなった時の顔は、生きていた時と変わらず穏やかで美しかった。今にも普通に起きてきて、「おはよう、今日もよろしくお願いします」と言いそうな顔だった。  しかし、亡くなって6日目になると、さすがに美貌も失われ、死人の顔になってきた。

葬儀屋さんからは何度もお棺に入れるものを選んでください。つまり、彼女が愛用したものなどを選べと言われていた。一緒に燃やすのだ。全然そんな気になれなかった。息子も同じ気持ちだったみたいで、便箋と封筒を買ってきて、お母さんへの最後の手紙を書いて入れようと提案してくれた。

予定通り2時半に妻を乗せた霊柩車は出た。その後、葬儀屋さんに見送っていただいている方々にご挨拶をと促されたが、「有難うございました」と言うだけが精一杯で、あとは泣いてまったく何も話すことが出来なかった。息子が、四十九日に、二人でご挨拶に廻らせていただきますと話してくれた。

仲良くされていた方は何度も訪れていただいた。それは、お互いにとってとても良かったと思う。つまり、残された者にとっては良かったと思うし、私自身の精神の崩壊を防ぐのにも役に立った。しかし、それは、彼女にとっては残酷なことをしたなと後悔した。亡くなって5日目頃から申し訳ないと謝っていた

結果として日曜日の葬儀だったので、数少ない親族の参加者にとっては勤めを休むことなく参列していただいた。と同時、約1週間の猶予があったので、団地の住民の方々、あるいは、彼女の幼馴染の方などにも会いに来ていただくことができたし、ゆっくりと彼女の思い出などをお喋りすることができた。

危うく忘れそうだったので、思い出した今、書き留めておきたい。妻は、20日土曜日の正午前に亡くなった。危篤状態になる数時間前まで、「明日もよろしく」と話していた。数日後に葬儀というようなことは、私には無理だった。だから息子には1週間は猶予をと頼んだ。

27日の土曜日、出棺の日である。いつものように朝早くに目が覚めた。数時間しか寝ていなかったが、二度寝は出来ないなぁと思って散歩に出かけた。午前4時半前だったので、外はまだ暗かったが、歩いている途中から明るくなり始めた。1時間ほど歩いて帰宅した。シャワーを浴びてさっぱりした。

【回想録 由美子のいなくなった夏 亡き最愛の妻への想い 第1回】

日記・34:幸福とは

日記・35:朝