【闘病考】コロちゃん妻「肺がん」になる⑤.
0.「今日の記事のポイント」
今日の記事は、下記のような内容になっていますよ。どうぞ最後まで楽しみながらお読みください。
☆「妻の緊急入院と余命宣告があったよと、満開の桜の日に大学病院での治療が終わったよ」
☆「自宅での緩和ケア体制を作ったよと、息子たちが毎週の帰省とテレワークをしたよ」
☆「コロちゃんは腰椎の破裂骨折を起こしたよと、息子たちが両手を握る中妻は逝ったよ」
☆「妻の2年9ヶ月の闘病とコロちゃんの思いと、コロちゃんの後日談」
☆「コロちゃんと妻の思い出と、コロちゃんのがん闘病記をお読みになった皆様へ」
1.「妻の緊急入院と余命宣告があったよ」
家族全員がそろった「上高地旅行」から、4ヶ月ほど過ぎたある日のことでした。
それまでは、足もとはちょっと不自由ながら、日常生活を何とか過ごしてきた妻に、いきなり異変が起こりました。
立ち上がれなくなったのです。
コロちゃんは、直ぐに「大学病院」に連絡をとりました。
その後「緊急入院」しての医師の診断は、「症状は上下肢麻痺。原因は脳の転移がんが拡大したもの」とされました。
「主治医」は、以下のように話していました。
「この時点で、今後抗がん剤治療をするのか、それともやめるのかの選択をしてください。何もしなければ余命3~6ヵ月、抗がん剤治療をすれば+4~6ヵ月です」
コロちゃんは、妻をその場に呼んで静かに話しました。
妻は「もう脱毛はやだな。もう(治療は)いいよね」と沈んだ声で言いました。その後二人でちょっと話をしました。
妻は「先に逝くけどごめんね」と言葉少なく語り、ふたりとも泣きました。
๐·°(৹˃̵﹏˂̵৹)°·๐
帰りの車の中でコロちゃんは「子どもたちも立派に独り立ちしたし、私たちはよくやったよ。2人だからここまで来れたんだよ」言うと、妻は「そだよね」と泣きながらうなずいていました。
残された時が少ないことは、妻もみんなもわかっていましたが、時間は否応なく流れていきました。コロちゃんと妻、そして息子たちとの別れの時が近づいてきました。
2.「満開の桜の日に大学病院での治療が終わったよ」
「大学病院」での治療が全て終わった日は、ちょうど「桜の花が満開の日」でした。
この退院日には、遠方に住んでいた「次男」も駆けつけて来て、コロちゃんと妻の3人で「桜が満開の土手沿いの道」を通って帰宅しました。
コロちゃんは、この時の桜吹雪に限りない寂しさを感じましたよ。
その日の夜には「長男」も仕事を終えてから駆けつけており、久しぶりに親子4人ですごしましたよ。
「大学病院」での最後の診察で「主治医」は、コロちゃんと妻を前にして以下のように話していました。
◎「大学病院での主治医の最後の診察の言葉」
➀「私の治療はこれで終了とし、緩和ケアへ※移行とします」
(※緩和ケア:がんの進行に伴う体や心のつらさを和らげる専門的な医療ケア)
➁「今後予想される症状は、右半身麻痺・全身麻痺・寝たきり」
➂「余命は1~3ヶ月」
上記の「緩和ケア」に移行するとは、もう「がんの治療」は止めることを意味します。後は「痛みを和らげる医療」に徹するということなのです。
この段階での妻の症状は、「右足が動かなくなり杖歩行が出来なくなる」「風呂は自力では出れない」「トイレは手すり伝い歩きでかろうじて」「右足のコントロールは出来ない」というものでした。
この時のコロちゃんは、あと「1~3ヶ月の妻の最後の日々の生活」をどのようにして自宅でするのかで頭がいっぱいでしたよ。
3.「自宅での緩和ケア体制を作ったよ」
妻の今後の生活は、「訪問医療・訪問看護・訪問介護」を受け入れての自宅での「緩和ケア」を選択しました。
当時のこの時点では、近隣の「緩和ケア病院(事前下見をした病院)※」では、一度入院すると「面会は一切禁止」となっていたのです。
(※緩和ケア病院:がんや他の疾患の進行に伴う体や心のつらさを和らげる専門的なケアを受けることができる病院)
「緩和ケア病院」の職員は、説明時にハッキリと「亡くなるまで会うことは出来ません」と言われましたね。
コロちゃんには、それはイヤでした。そしてそれ以上に、コロちゃんは自分で妻の「最後の日々」の介護をしたかったのですよ。
コロちゃんと妻は、もう50年近い日々を一緒に歩いてきたのです。若い時からずっと一緒に長い道を歩いてきた妻と、最後までともに歩きたかったのですよ。
それで「自宅での緩和ケア」を選択したのです。妻が自宅で最期の日々を過ごすために、家族がみなで走り回りました。
「大学病院」の「退院支援看護師」と「ケアマネージャー」と相談をして、「訪問医師、訪問看護師、訪問薬剤師・訪問介護士」の手配を行い、「入浴看護」や「生活リハビリ」もお願いしました。
この時の妻の状況は、すでに「立てない・歩けない・寝返りできない。トイレ・洗面も補助が必要」でした。ただ、食事はまだ自分で出来ていました。
コロちゃんは、妻の「親族」とも連絡を取り、妻の姉妹と最後の面会の手配をしました。
4.「息子たちが毎週の帰省とテレワークをしたよ」
妻の「上下肢麻痺」は徐々に進行していきました。介護の内容がだんだん増える中、「総力戦」で皆が支えてくれました。
月曜日と金曜日は「掃除介助」と「訪問リハビリ」、火曜日と木曜日は「デイケア」でリハビリです。
更に土曜日は「シャワー浴介助」を行ないました。病状が進行すると「訪問入浴」もお願いしました。居間に大きな浴槽を持ち込んでお風呂に入れてくれるのです。
コロちゃんの負担も大きくなってきたので、夕食は「宅配弁当」にしました。
2人の息子たちも、それぞれ毎週金曜日に「帰省宿泊」と、「テレワーク帰省」で支えてくれました。今当時のカレンダーを見ると、2人の子どもたちは「毎週末」にはほとんど帰省していましたね。
そのような「総力戦」で戦う中で、コロちゃんの身体に異変が襲いました。
5.「コロちゃんは腰椎の破裂骨折を起こしたよ」
妻が自宅で「緩和ケア」に入ってから2ヶ月後のことでした。
コロちゃんは、もう歩けなくなった妻の移動のために、持ち上げて「室内車いす」に移す行為を繰り返していました。
しかし、その時にはコロちゃんの「腰の負担」が限界を超えてしまっていたのですね。
コロちゃんが、ベッドで寝ている妻をいつものように「よいしょ!」と持ち上げた時に、腰から「ごりっ‼」という響きと、鋭い痛みが走ります。
コロちゃんは、妻を抱えたまま一緒にベッドから転げ落ちました。それから何とか二人でベッドの上に戻り、コロちゃんは妻に謝りました。
「ごめんよ、もう持ち上げるのはできなくなっちゃった」。
妻はもうその時には、ほとんどしゃべれなくなっていましたが、悲し気にうなずいていました。
その時のコロちゃんの腰は、後に「腰椎1番の破裂骨折※」と診断されました。
(※脊椎の前方部分のみが潰れる骨折を圧迫骨折、脊椎の前方+後方も潰れる骨折が破裂骨折)
それまでも、コロちゃんと「妻のがんとの治療」は戦いでしたが、さらに「闘病」の色彩を強めました。
コロちゃんはその時に、この腰の痛みが全身を貫く中で介護を全うすることにすべてを賭けようと思いました。
すべてを投入するのです。そのために生きるのです。その先にこそコロちゃんの残された人生があります。
コロちゃんは、痛みに歯を食いしばりながら、その後「妻が逝くまでの3ヶ月間」を介護しましたよ。
6.「息子たちが両手を握る中で妻は逝ったよ」
どんなにつらくとも、どんなに苦しくとも、どんなに悲しくとも、いずれ最後は訪れます。
妻が、もう食事をとれなくなってから3ヶ月が過ぎたある日のことでした。
朝いつものように、コロちゃんが妻の「洗面介護」を終えて、ほっと休んでいると、いきなり妻が「ゴーゴー」と荒い息をし始めました。
明らかに、それまでとは全く違う呼吸なのですよ。
コロちゃんは、これはおかしいと直ぐに「医師」に連絡しました。
すぐ来てくれた医師は「24時間持つとは思えない」との宣告です。
あとでこれが「死前喘鳴」というものであることを知りましたね。この「死前喘鳴」とは、死亡直前(死亡数時間前から数日前)に「ゼーゼー」という呼吸音が生じることを言うそうです。
「終末期のがん患者」では40~70%に生じるとされています。
しかし、その時のコロちゃんには、そんなことは分かりません。ただ「医師」の言う「24時間持たない」という言葉が頭の中をグルグル駆け回りました、
コロちゃんは、すぐに息子たちに連絡を取り、その日の夜には「長男」と「次男」が駆け付けました。
「次男」は遠方に住んでいるので「新幹線」で駆け付けましたね。
その夜の妻はもう言葉はしゃべれませんが、声をかけると目にはまだ力があるかのように感じられました。
コロちゃんちの居間に「介護ベッド」と「布団」を敷いて見守りながら、夜10時頃に全員で就寝しました。
その深夜の1時ごろに、長男が突然「息がおかしい!」と叫びます。
その時の妻は、朝からの「ゼーゼー」よりも更に「荒い息」を繰り返していました。二階で寝ていた「次男」が、階段をドドドッと駆け下りてきました。
妻が寝ていたベッドの両脇に「長男」と「次男」が立ち、妻の両手を握りました。
2人は口々に泣きながら「ありがとう、ありがとう、幸せだったよ」と声をかけました。。妻は一度目を見開いてから、静かに目を閉じました。
そして妻の息は、静かに止まりました・・・。
コロちゃんは、声も出せずに、ただ滂沱の涙を流すことしかできませんでしたよ。
7.「妻の2年9ヶ月の闘病とコロちゃんの思い」
あらためてこの文章を書いていて、妻の最後の日々となった2年9か月を追体験した思いです。
コロちゃんの妻が亡くなってからもう丸3年がたちますが、未だに悲しいですね。
コロちゃんは、何度も涙を流しながらキーを叩きましたよ。
今でもいろいろ思いが高じると涙がにじむことがあります。しかし、生きている人間は未来があります。後ろを振り返らない。これはコロちゃんのポリシーです。
それに、なによりもくよくよ泣いていれば、妻にお尻を蹴とばされてしまいます。
そういう「心の強い女性」でした。
学歴もなく、おとなしくもなく、知性もあまりなく(怒られるかな)、ざっぱくな性格でしたが、どんなことがあっても、くじけず、負けず、下を向かない、強い個性的な女性でした。
そのキャラをコロちゃんは大好きでした。妻とコロちゃんは、性格は真逆でしたが、ともに歩いているとぴったり息が合っていたんです。
妻は、コロちゃんが一番尊敬した女性です。そして今でも大好きです。合掌。
( ˘🙏˘ )ナムナム
8.「コロちゃんの後日談」
コロちゃんの妻が逝ったのが秋の始まりの季節でした。
その後ちょっと経った頃に通いなれた「大学病院」で、コロちゃんの「悪性リンパ腫の主治医」から「悪性リンパ腫の治癒」が伝えられました。
コロちゃんが最初に発症した「大腸がん」は、妻の「肺がん発症」の前年に既に「治癒」となっていましたので、この時の「悪性リンパ腫の治癒」でコロちゃんの「がん闘病」は一段落となりました。
しかし、この「悪性リンパ腫治癒」を、一番喜んでくれるはずの妻はもういません。コロちゃんは、あまりうれしくなかったですね。
だけど、ちょっと興味を引いたことがありましたよ。
「大腸がんの治癒の5年間経過」は、「最初の手術日から5年間」と主治医が言っていました。
ところが「悪性リンパ腫治癒の5年間」は、始まりが「手術日」ではなく、「抗がん剤治療と放射線治療後のPET検査日※」から5年間だと言われたのです。
(※PET検査:陽電子放出断層撮影:がんの腫瘍の大きさや場所を特定したりする精密検査)
それでコロちゃんの「悪性リンパ腫治癒」は、発祥から6年後になり、妻の死去後になりましたね。
コロちゃんは、この「悪性リンパ腫治癒」を伝えられた「大学病院」からの帰り道の車の中で、隣の助手席にはもう妻を乗せることがないんだと哀しみを感じましたよ。
何しろこの「大学病院」には、コロちゃんはかれこれ8年間も通いましたよ。そして、そのうちの3年近くは妻を車の助手席に乗せて通ったのですよ。
コロちゃんは、ため息をつくばかりでしたよ。
(。•_ก)さみしぃ
9.「コロちゃんと妻の思い出」
コロちゃんは、暗い話ばかりで終わるのはあまり「コロちゃん流」じゃないなと思って、ちょっと蛇足ですがエピソードを付け加えますね。
子どもたちが「小学生」だった頃のことです。
何しろ「男の子2人の兄弟」ですから、やることが何とも「荒っぽい」と言うか「ガサツ」と言うか、「悪ガキ2人」となっていました。
その時には、「2人の子どもたち」が何か悪さをしたのでしょう。妻の怒りが爆発しました。近くにあった掃除機の筒で頭を「コラー!」と叫びつつ殴ったようでしたね。
コロちゃんは、その場に居ませんでしたから見てはいないのですが、なんと「掃除機の筒」が割れてしまったのです。
後で、それを聞いたコロちゃんは、「何で掃除機で打ったの?」と妻に聞くと、「だって手で打ったら手が痛いじゃない」との御返事です。
コロちゃんは「大笑い」しましたよ。「さもありなん※」ってね。
ꉂꉂ(ᵔᗜᵔ)アハハ
(※さもありなん:意味は「もっともなことだ」「当然のことだ」:語源:源氏物語:然もあることと皆人申す)
とにかく妻は、元気で子どもを可愛がる時には全力で可愛がり、叱る時にも全力でしかる母親でしたよ。
10.「コロちゃんのがん闘病記をお読みになった皆様へ」
ここ10年近くにわたり戦われた「コロちゃんの闘病記」をお読みいただいた皆様、ありがとうございました。
これで「コロちゃん大腸がんになる」「コロちゃん悪性リンパ腫になる」「コロちゃん妻肺がんになる」のがんシリーズを終わります。
拙い文章ですし、読みずらい内容だったかも知れませんが、同じような悩みを抱えていらっしゃる方に、いくらかでも情報と力を分けられればと思いながら、この文章をつづりました。
キーをたたきながら、感情に走って涙したことも何度もありました。うまく伝えられない己の未熟さにも呻吟する思いを抱いたことも多かったですが、いささかでも皆様のお力になれば幸いですよ。
ありがとうございました。
コロちゃんは、社会・経済・読書が好きなおじいさんです。
このブログはコロちゃんの完全な私見です。内容に間違いがあったらゴメンなさい。コロちゃんは豆腐メンタルですので、読んでお気に触りましたらご容赦お願いします(^_^.)
おしまい。