見出し画像

雨のドライブ

 その週末はあいにくの天気だった。朝、ベランダに出ると煙るような細かい雨が降っていた。雨のスクリーンの向こう側には街の明かりが揺らいで見える。眼下には大小様々な家々が立ち並び、その間を無秩序に高いビルが筍のように生えている。まるでうっそうとした竹林を思わせる風景だ。ビルの間の高架を赤い電車が滑るように走っていく。明かりの灯った電車の窓からは人がまばらに見えるだけだ。街の南北を貫く国道を車が走っていく。その水しぶきの音だけがやけに大きく聞こえる。予報では天気は回復に向かうといっていたが、この雨はやみそうには思えなかった。
 先週、義父から電話があった。特別な用件があるようではなかったが、きゅうりとなす、オクラが採れたから取りに来ないかという電話だった。スーパーで買えるような野菜を、三百キロ運転して取りに来いというのかと苦笑しながらも、義父なりに僕のことを心配してくれているのはよくわかった。不器用だが実直な義父らしいと思った。その義父とも妻の葬儀以来会ってないので、お互い一人暮らしの寂しさを分かち合うのも悪くないかもしれないと思い、週末に訪れることを約束してしまったのだ。でも当日になるとなんだか気が重くなってきた。
 妻の部屋にある遺影に手を合わせる。妻はいつもどおり三日月形の目で笑っているだけで何も答えてくれない。写真の隣には黒天目の花入れにユリが活けてある。花入れは妻が趣味で焼いたものだ。まるでそこに置かれることが想定されていたように、ぴったりと収まっている。妻が亡くなってもう半年もたっているのだが、未だに妻の死が受け入れられない。彼女の部屋も整理することができず、生活していたころのままになっている。
 妻の死は突然だった。半年前の朝「じゃあミチ君、行ってくるよ」と言っていつもどおり、職場であるコンビニに出かけた妻だったが、その日の夕方、僕のスマホに見知らぬ番号から電話があった。出てみると妻の職場に近い病院からで、聞けば「妻が急性心筋梗塞で倒れた」と言う。僕は急いで病院に向かったが到着した時には、医師から「残念ですが、手の施しようがありませんでした」と告げられた。まさに青天のへきれきだった。血圧が高く薬は飲んでいたが、それ以外は至って健康だった彼女のあまりにも突然の死だった。涙さえも出ず、病院の廊下に立ち尽くすばかりだったのを、昨日のことのように思い出す。
 ユリの花粉が落ちているのが気になり、花入れに手を伸ばした時「ミチ君の悪い癖、決めたら迷っちゃだめだよ」そんな声が聞こえたような気がした。ハッとして写真を見上げるが、変化があるはずがない。そうだよな。お義父さん待ってるもんな。そう思い直して「じゃあ、行ってくるよ」と妻の写真に声をかけて手早く支度をする。
 バッグを一つだけ持って階下に降りると雨はまだ降っていた。マンションの敷地内に駐車してある黄色の小型車に乗り込む。この車も妻が選んだ車だった。近くの自動車販売店で他の車はどんどん入れ替わっていくのに、この黄色の車だけは長い間、売れ残っていた。妻は中古車店の前を通るたびに可哀想だと言い続け、結局、捨て猫を拾うような気持ちで我が家に迎え入れたのだ。小回りが利き、きびきびと走ってくれるこのフランス車は妻のお気に入りだった。
 雨の高速道路を東へ向かって車を走らせる。ワイパーがフロントガラスにあたる細かい雨粒を拭っていく。エンジンがリアにあるためか小刻みなエンジン音だけが室内にこもって聞こえる。車全体が水滴に包まれ、外の世界と遮断されているような気さえする。走行車線を淡々と走らせるが、時々遅いトラックに進路をふさがれてしまう。トラックの跳ね上げる水しぶきで視界が確保できないので、一速落としてアクセルを踏み込む。黄色い車は瞬発力こそないものの、過不足ない安定した力でトラックを追い抜いていく。
 半島の根元で高速を降りると雨は小降りになってきた。妻の実家の街に行くためにはそこから峠を越えなければならない。道は空いていて峠のふもとまでは快適に車を走らせることができた。山道を登り始めると霧が出てきたが、山ではよくあることなのであまり気にすることはなかった。しかし峠が近くなると、まるで舞台装置のドライアイスのように突然、霧が濃くなり杉の密林を覆い隠してしまった。前方はヘッドライトに照らされた霧がぼーっと浮かび上がるだけで、視界は数メートルほどしかない。通いなれた道とはいえ心細さを感じる。僕はハザードランプを点けてつづら折りの道をそろそろと登っていった。不思議なことに対向車とは一台もすれ違わなかった。
 突然、右手前方にぼんやりとした水色の光が目に入った。対向車かと思い身を固くしたが、近づくとそれは水色の地にミルク缶が白抜きされた街でよく見かけるコンビニの看板だった。僕はほっとして強く握りしめていたハンドルの力を緩める。でもこんな所にコンビニがあっただろうかと、訝りながらも、その水色の光に吸い寄せられるように右折する。
 そのコンビニは入った瞬間に身震いするほど、異様に冷房が効いていた。カウンターには背の高い女性が立っていた。その姿を見て息をするのも忘れるほど驚いた。髪は濃い茶色のボブ、少し垂れた目で愛嬌のある顔はまぎれもなく妻の香代子だった。
 妻も僕に気づいた。そして茫然と立ち尽くしている僕に「ミチ君、きっと来てくれると思ってたよ。先週からここで働いてるんだよ」とすました顔でいうのだった。

いいなと思ったら応援しよう!