鈴木大拙『華厳の研究』「心…は…二元的存在を超えたものだとわかると、仏も菩薩も衆生も皆この心にほかならぬと…」 ”二元的存在を超えた心”が二元的存在へと分かれる 心がいきなり2になるのではなく8になるこの8が4になり、この4が2になる https://note.com/way_finding/n/nb3d804bb2e0c
和泉式部の「ものおもへば 沢の蛍も我が身より あくがれ出づる 魂かとぞみる」も、深層意味論の意味分節モデル(二項対立関係の対立関係の対立関係)に変換するとおもしろそう。「おもう」「あくがれ」「いずる」がストレートに絶対無分節の自己分節をシンボライズするが故に最表層と最深層が直結(
華厳経入法界品の「ドラヴィダ人メーガ」、"無礙の弁才"でもって"音声のマンダラを円満に成就する"ー人間たちの、鬼神たちの、梵天たちの梵天の」言葉の「多種性」と「同一性」と「変異」と「名称」と「慣用法」に通じる「妙音陀羅尼光明法門」の話がすごい(すごいしか思いつかない我が"弁才"
前に書いた記事をリライトしてみました。 "言葉は「意味の伝達」の道具ではない ー安藤礼二著『迷宮と宇宙』を読む" https://note.com/way_finding/n/n84173fa44646 井筒俊彦氏の『意識と本質』も、改めて精読してみたいところ。
物質としても精神としてもあらわれる分化し・結晶構造を発生させようとする傾向そのもの(それ自体は絶対的無分節でありながら分節化しようとすること)。 これはランガージュからのラングの発生ということでもあるし、無意識からの意識の発生ということでもある。
❗️彼に「月曜日」と言われると 林檎を差し出すのが、 最近の日常になりつつある。 特定されたエクリチュールによる コノテーションの支配を受け入れる。 :ロラン・バルト
ひきつづきエーデルマン『脳から心へ』…「符号をどんなに定義しても(=つまりコードを決め、ソレに基づいてエラーを識別しつづけても)、言語表現の意味を尽くすことはできない」「意味は特定の符号系の中で特定の用語の組で拘束されることを拒否する」P.294
インデックス/イコン/シンボルの区別。脳ではイコンの前にインデックスが必要か。「記号構造にははじめから意味がある」「認知の記号は現実の脳にある概念装置にマッチしなければならない」(エーデルマン『脳から心へ』p.297)。肝はコードが多重構造であることか。