文化人類学がおもしろい -存在論的転回と”関係論的"存在論
この数年、人類学(文化人類学)が盛り上がっている。
読んでおもしろい本が続々と発表されているのである。
この「おもしろさ」の肝は人類学の「存在論的転回」にある、と個人的には思っている。そこでは物事を考える時の基本的な「議論の組み立て方」がぐるりと「転回」する。
例えば「ある」と「ない」。
あるいは「はじめからあるもの」と「あとから出てくるもの」。
私たちの日常の意識や思考や行動は、二極を分別することに多くのことを負っている。
明るい/暗い
かたい/やわらかい
重い/軽い
よい香り/悪い臭い
大きい/小さい
上/下
左/右
長/短
といった感覚的なことから始まって、
よい/わるい
価値がある/価値がない
善/悪
といった値打ちの分別。さらには、
ある/ない
存在/非存在
生/死
動いている/止まっている
現れる/消える
強まる/弱まる
生死/涅槃
異なる/同じ
現実/非現実
というような、経験的世界=現実とは何であって何でないかを分別していくことを可能にする、極めて根源的な二極・二項対立まで。
こういう諸々の対立する二極に照らし合わせて、ある物事の意味ということが、似たような言語でコミュニケーションする(できていると思っている)集合において、集合的に形を成していく。
たとえば誰も「象」という動物を見たことがない社会の人々のあいだで、どうやら「ゾウノハナ」なるものがあるらしい、ということになれば、それは、長いか/短いか、重いか/軽いか、大きいか/小さいか、明るい色か/暗い色か、生物であるか/無生物であるか、…といった具合に、いくつもの二項対立のどちらか片方の極を順番に選んで集めていくことで、
それ ー が ー なに ー であるか
が、他の”それ”ではないものたちとの対立二極の選び方の組み合わせパターンの違いとして、際立ってくる。
* *
私たちは日常、「分別ある」社会の一員として生きている限り、(いや、いわゆる分別がないと非難されるような人であってさえも十分すぎるほどに)、こういう二項対立の一覧を共有しあい、ある任意の事柄xをどのような二項対立のどちらの極たちの組み合わせパターンによって意味付けるか、ということを共有している。そうしていわゆるそれぞれの社会や組織において「常識」と呼ばれるようなことが形を成していくわけであるが、それがしばしば、外部の社会からの訪問者には実にめずらしい興味深いことに見えるのである。
例えば、日本の日常の光景としてよくある、「とんこつラーメンをスープまで飲み干す」とか「クリスマスで讃美歌を歌った数日後に、初詣で神社に参拝する」とかいったことも、日本とは異なる宗教文化を生きる方によっては、驚くべき所業にみえるという。
* * *
文化人類学は、このような様々な人類社会における分別のしかたの差異を徹底的に観察し、記録してきた。文化人類学は、分別について、差異に対して、きわめて鋭敏な感性をもつ学問であるとも言えるだろう。
その文化人類学における「存在論的転回」である。存在論とはせんじつめると「ある」と「ない(あるーではない)」の分別をどうつけるかということであるが、その「転回」とはすなわち、従来、文化人類学の専門家のあいだで共有されてきた「ある」と「ない」の分別の仕方をひっくりかえしてみよう、ということになる。
存在論的転回において、「ある」と「あるーではない」の二極の関係が、前者が後者の位置へ、後者が前者の位置へ、入れ替わるのである。そうなると物事を記述する言葉の配列の仕方もまた組み変わっていくし、物事の見え方、特に文化人類学であれば研究対象となる社会の人々の営みやそこで編まれた言葉の、研究者にとっての「意味」も、大きく変わるのである。
ここでひとつ、昭和59年(1984年)に文化人類学者の岩田慶治氏が書かれた一節をご紹介しておこう。
それぞれの民族の「世界観」の本質はその「もっとも単純な形としての二元的」にできている。この”二元”を「不断に問う」。するとその先で、「二が一になり、一が二になるという世界の生きた姿を一挙に透視することができるにちがいない」と岩田氏は書く(岩田慶治『カミと神 アニミズム世界の旅』pp.286-287)。
二が一になり、一が二になる。
つまり分別が、二項対立が、分け終わり、分かれ切って、定まって止まっているところではなく、分かれつつも未だ分かれ切っていない、分かれているような分かれていないような、という”あわい”を「透視」する。
そうした叡智には、分かれているでもなく分かれていないでもないところから、無量に多様な分け方の可能性のパターンを試しながら生きる、生き直す余地が開かれるのである。
(この『カミと神』については下記の記事でも詳しく検討しているので、
ご参考にどうぞ)
存在論的転回とは
人類学の存在論的転回とはどういうことか。奥野克巳氏、石倉敏明氏の編集による『Lexicon 現代人類学』20ページに収められた大村敬一氏の説明を参照してみよう。
それによれば人類学の存在論的転回とは次のようなことである。
まず自然と人間の二項対立や、存在論と認識論といった、「二項対立」を前提としない。
逆に従来はしばしば「二項対立」が「前提」とされていた、ということになろうか。
次に、多様な人々、多様なアクター(人間以外の動物や植物や機械のようなものまで含む)それぞれ”にとって”存在する「多様な世界」に注目する。
ここでそれぞれのアクター”にとって”存在するそれぞれの世界とは、「物質=記号的な実践の過程」を通じて「生成する」出来事、事柄であると考える。
「生成する」とはつまり、(生成の過程をすっ飛ばして)初めからそれ自体として存在するものではない、ということである。
そして、このそれぞれにとっての世界を生成する物質的=記号的実践の過程を「認識論的にではなく」「存在論的に」分析すること。
これが存在論的転回を経た人類学のアプローチであるという。
自然と人間の二項対立をやめてみる
20世紀の人類学、いや、人類学に限定されない客観性を志向する科学の思考は、人間というものと、自然というものがそれぞれ別々に存在している「ということにして」、これを前提に設定しておいてその上で、両者が何らかの方向で関わったり、影響を与えたりしあう様子を理路整然としたロゴスの言葉で記述しようとした。
ここで問題になるのが「認識論」である。
認識論とは、つまり、もともと別々で本質的に無関係である「はず」の人間と自然のような二項の間で、どのようにして「人間が自然を認識する」という関係が成立するのだろうか、と問うことである。
人間 / 自然
「まず二項に分かれていますよ」というところを前提にするのであれば、「では、その二項の間はどうやってつながっているのでしょう」という問いを問わざるを得ないことになる。
ここで、そもそも切れている別々の二者の間をつなぐ鍵がいろいろと構想されたり、さらには元来全く無関係であるはずの二項の間にはこれを繋いだり結んだり影響を与えたりするような関係など存在しないのではないか、と疑わざるをえないことにもなる。
*
これに対して存在論の方へ転回した思考は、この自然と人間の区別、二項対立をあらかじめ与えられた大前提の出発点に設定する、という議論の立て方をやめてみるのである。
つまり人間と自然の分別を、分かれているような分かれていないような、という宙ぶらりんの、分節の発生状態にまで戻して、それでいてなお、言語という分別の道具のようなものになりがちなものを用いて思考してみよう、というのである。
*
認識論から存在論へ
人類学者のティム・インゴルド氏は、存在論的転回とは何かという問いに対して、それはすなわち「認識論」から「存在論」への思考様式の転回であると答える。
認識論は、人間と自然、文化と自然の対立を前提とした上で、両者の間にどのように関係が成立するのかを問う。人間と自然という、それぞれ他方と無関係に予め存在する項どうしが、どのように相関するのかが問われてきたのである。
これに対して存在論は次のように考える。
とにもかくにも「私たちが知っている」と思っている=考えている=感じている=語っている「世界」は、「どのようにある」ものとして考えられ、語られ、記述され、記号の配列で織り上げられているのか?
これが存在論の問いである。
すなわち下記のように「ある」と「ない(あるーではない)」の二項対立を分別した上で、「ある」の側に結びつけて良いもの「x」はなにか、逆に「ない」の側に結びつけなければならないもの「非x」はなにか、といったことのリスト作りを、私たちは知らず知らずのうちに行なっているのである。
ある / ない
|| ||
x / 非x
認識論的な問いは、すでに「ある」所与の存在とされるものを、他のどのような言葉に、あるいはその言葉によって意味されるとされる物事に、言い換えていくべきなのか、置き換えていくべきなのか、という問題を立てる。
これに対して存在論的な問いは、所与の前提としてすでに「あるはず(あるいはないはず)」とされているものが、一体どのように「あるはずだということになって(ないはずだということになって)いるのか」を問う。
つまり、
ある / ない
この分別を、できあいの、すでに分け終わり済みのものとして扱うのではなくて、わかれているような、わかれていないような、一にして二、二にして一のこととして、つまり、あるようなないような、あるでもなくないでもない、というところから仮にあるの極がフォーカスされたり、ないの極がフォーカスされたりするようなこと、として扱ってみる。
ある / ない
↑
あるような、ないような?
あるでもなく、ないでもない
これが存在論的な問いかけである。
存在論的転回の存在論とは「関係論的存在論」である
存在論的な問いのポイントは、この「ある(はずだということになっている)」/「ない(はずだということになっている)」の区別がどうなっているか、どのような言葉や記号の配列の中に、あるとかないとかの分節が織り出されているか、である。
存在論的な問いおける「ある」/「ない」は、認識論が想定してきた「自然」や「人間」のあり方としての「ある」や「ない」とは異なった別種の「ある(ということとして記述されている)」「ない(ということとして記述されている)」である。
*
記述すること・分節すること=四項の関係に配列すること
ここで存在論的に展開した人類学では、「ある」=存在を「関係論」的に考える。
関係とはどういうことか?!
ここが重要である。
関係は、そのままではさも当然のように、上でいう「認識論」を前提として理解されてしまう場合がある。認識論において予め区別された二つのもの(人間と自然)の間に、後から、事後的に、おまけのように生じることとして「関係」が捉えられる。このあってもなくてもどちらでもかまわないオマケのような”関係”は、関係論的存在論の「関係」とは違うのだ。
インゴルド氏は次の3つの「関係」を区別する。
関係のイメージその1:互いに対して本質的に閉じた、二者の間の取引、というイメージ。これが先程の認識論の関係である。
関係のイメージその2:二者の関係は、制度的枠組みの中で占める位置関係である、というイメージ。これはレヴィ=ストロース氏の「構造主義」に関わると考えられる。別に詳しく論じる必要がありそうである。
関係のイメージその3:関係を、いのちある存在が一緒にやっていくことについて経験するあり方、とみる。
この(3)の関係は、「いのち」ある異なるものたちが「一緒にやっていくこと」を「経験するあり方」としての関係である、とインゴルド氏は書く。
関係論的存在論の存在=「ある」は、この第三の関係のなかでのみ、この関係が動き続けているあいだにのみ、その姿を、ある「いのち」において浮かび上がらせる。
* * *
3.の関係について、インゴルドは諸関係が展開していくなかで、それらが結集していくような存在が絶えず生まれてくる、と書く。
「関係し合う存在」は「相互に構成されている」のである。
ここでは「わたし」という存在も、関係論的な存在である。それは「他者との関係が、あなたの中に入り込み、あなたをあなたという存在にしている。それと同じように、関係が他者の中にも入り込む」という関係である。
*
関係論的な存在は、動的である。それは動き続け、そのあり方を変化・変容し続ける。しかもその動きは均質でも均一でもない。いくつもの動き方があり、それぞれの動きを通じて、いくつもの関係論的な存在が動的に存在するように「なる」。
関係論的存在論にとって何かが「ある」ということは、認識論のアプローチが想定するような、人間や文化や言葉とは「別」に、その「外部」に、「自然」として、それ自体として、所与の固まった何かとしてあらかじめ「ある」ということではない。
関係論的存在論にとって何かが「ある」ということは、ある人間にとって「ある」、ある社会を生きる人間にとって「あるということにされている」ことであり、ある文化を生きる人間にとって「あるということにされている」ことであり、ある部族の人間にとって「あるということ」にされていることである。
ここで「あるということにする」というのを、「ある」と「ない」を分節する、と言い換えても良いだろう。分節、すなわち、あるを非-あるとしての「ない」と区切り、ないを非-ないとしての「ある」と区切る。あるとかないとかいうのは、この区切ること、分節することの後で、初めて言ったり書いたり、記述したり=記号として配列したりできるようになることである。
ここで「ある」=存在することは、ある人間が実際にどこかの自然的文化的環境の中で生きているということの中から、つまり自然と人間、自然と文化が認識論的に区別されるよりも遥かに手前で、渾然一体となって交わりつつひとつに絡まり合うところで、両者の関係そのものとして分かれつつある現象(非-ないとしての、あるということになっていくこと)であると言えようか。
そしてこの「ある」と「非-ある(ない)」のような二項対立が、他の何かの二項対立(例えば人間と動物でもいいし、生者と死者でもいい)と重なり合って、二項対立関係の対立関係を成す。この4項の関係が、私たち人類にとっての「意味する」ということを動かしている。
(分節については下記に詳しく書いていますので参考にどうぞ)
ちなみに、インゴルド氏が「線(ラインズ)」について論じていることも、この分節、分節すること、線を引くことー分けたり繋いだりすることのいくつもの種類に関わる話である。
*
認識論的には「人間」と対立する「自然」の側に属する所与の実体と捉えられがちな「ある」ということ。
これが関係論的存在論では、人間と自然が認識論的に区別されないままに、同じ一つの事柄でありながらそのなかの異なる局面としてうごめくところで、そのうごめきのひとつのパターンのようなものとして捉えられるのである。
* *
こういうことを考えることができる今日の人類学は、まさに「人類」の営みの極みを記述することができる学ということになるだろう。それがおもしろくないはずがない。
おわりに
存在論的に転回した人類学の思考については、ブルーノ・ラトゥールのアクター−ネットワーク理論(2005=2019,伊藤嘉高訳『社会的なものを組み直す : アクターネットワーク理論入門』法政大学出版局)や、エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロの他自然主義がある(2009=2015檜垣立哉,山崎吾郎訳『食人の形而上学』洛北出版)で深く知ることができる。
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