意味分節理論は「書く」と「読む」の役に立つ
意味分節理論などというと、”いかにも抽象的で、現実離れして、とても何かの役に立つとは思えない感じがする”といった印象を持たれることも多い。
ちなみに、意味分節理論というのは意味(意味する)ということの発生を、次のようなモデルで考えるものである。
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まず、ある二つのシンボルの二項対立関係を二つ重ね合わせ、そこに第三の二項対立を直交させる。この第三の二項対立を軸にして、最初の二つの二項対立の重なりがくるくると回転するようにしておく。
これが「意味する」ということのエンジンでありジェネレータであり、ここから人間が意味があるとかないとか言うことの全てが現成する。
というのが意味分節論の大枠である。
詳しくは下記の記事などに書いていますのでご参考にどうぞ。
意味分節理論は役に立たない机上の空論?
このような意味分節理論が、何の役にも立たないのではないかという印象を持たれるのは至極真っ当なことである。
これは皮肉ではない。
本当に真っ当で、極めて常識的である。
なぜなら常識の世界や、真っ当なことと真っ当でないことをはっきりと分けることができる世界というのは、意味を自在に創発させるジェネレータを覆い隠した上に建設されるものであるのだから。
常識的日常的に「現実」だと思われている世界の内側からでは、意味分節の躍動のことなど考えなくても良いようになっている。
意味のジェネレータには色々な呼び方があるが、その一つは「無意識」である。
無意識は、表層の意識に対する深層であり、目に見える表層に対して目に見えない事柄である。
表層 / 深層
意識 / 無意識
もちろん、表層の意識の安定的に固まった意味分節”体系”は、実はこの深層の意味のジェネレータである意味分節”システム”によって再生産され続けることでその安定した同一性という外観を保っている。ソシュールの用語を借りて、表層の固まって見える体系を「ラング」、深層の蠢くシステムを「ランガージュ」と呼んでも良い。
表層 / 深層
意識 / 無意識
ラング / ランガージュ
体系 / システム
静態 / 動態
いずれにしても、深層の運動を通じて表層の安定的同一性が再生産されているという事情が見えないようになっているところで、表層の体系の安定性はより確かなものになる。
意味分節理論は、とても役に立つ
ところで、意味分節理論は役に立つ。
いつどこで役に立つかといえば、読むときと書くときに役にたつ。
読むも書くも、どちらも言葉を並べていくことであるわけだが、意味分節の発生、即ち、二項対立を重ね合わせることは、実は言葉を線形に並べていくことによって実現されているのである。
例えば「AはBである」と書くだけで、実は以下のような4項の関係が発生しているのである。
A / 非A
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B / 非B
というわけで、「書く」場合を想定して意味分節理論の活用例を示してみよう。例えば「遠足の思い出を400字程度で作文せよ」というお題が与えられたとしよう。
ここでまずやることは、4項関係を仮に置いてみることである。例えば次のような具合である。
遠足 / 非-遠足(=日常)
|| ||
思い出(特別なエピソード) / 非-思い出(日々の繰り返し)
左上と左下に、とりあえずお題にある「遠足」と「思い出」を置いてみたのである。これ以外の言葉を置いてもいっこうに構わない。
さて、ここで意味分節である。「遠足」と対立する項は「非-遠足」である。非-遠足をなんと考えるかも、これまたどうでも良いのであるが、ここでは仮に「日常」と置いてみよう。つまり遠足以外の日にも目に入る光景などである。
次に「思い出」と対立する項は「非-思い出」である。非-思い出もなんでも良いのであるが、仮に、遠足の思い出が遠足に特有のエピソードになると仮定すれば、その逆、つまり遠足であろうがなかろうが、いつでも経験できる日々繰り返される事柄を置いておけば良いということになる。
ここで日常性が際立つ場面として「朝起きる」という何の変哲もないことを取り上げてみよう。
朝起きる。
布団から出たくないが、頑張って出る。
カーテンから差し込む光。
などなど、素朴な日常の愛すべき光景がいくつか浮かぶのではないだろうか。
ここまで置いたら書き出してみよう。
作文の書き出しは、とりあえず上の構図の右側に置いた、日常のありふれた光景から始めてみよう。その方が、読み手にとってもわかりやすくなる。
ここで何をやっているかというと、布団やカーテンや起床といった「非-遠足の日常」にも毎日ある「日々の繰り返し」を、特段「思い出」というにはまだ当たり前すぎる事柄を、「遠足の日」に置き直しているのである。
つまり、上の構図にある二段重ねの二項対立関係のうちの片方の向きをひっくり返したのである。
遠足 / 非-遠足(=日常)
|| ||
非-思い出(日々の繰り返し) / ----------------------------
そうして「僕」と布団や、カーテンや、朝日との日常のありふれた関係に、何やらいつもとは違う様相があるかのような雰囲気を纏わせるのである。ここで特段表現にひねりを効かせる必要はない。
今日の布団は、遠足の日の布団だ。
というように、布団と遠足を短絡してしまえば十分である。
あるいはいつもの朝日も、遠足の日の朝日となると、これまた違った趣がある、といったことを書いても良さそうである。
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この調子で、通学路で見つけたものをことごとく「遠足の日の〇〇は、いつもと違って見える」と言った具合に並べていくだけでも、十分作文として成立する。
遠足の日の靴、遠足の日の横断歩道、遠足の日のカーブミラー、遠足の日の雑草、遠足の日の先生。
もちろん、何事もあまり繰り返しすぎるとワナワナとふるえ出す人がいるので注意しよう。過度な反復は、深層に隠れているべき意味分節システムのダイナミズムを露骨に表に引っ張り出してしまうことになり、表層意識を恐怖させるのだから。
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ここまで来たら意味分節理論を駆使してもうひとひねり効かせてみよう。すなわち、遠足ならではの思い出、遠足に関して特に思い出される印象深い事柄を、遠足の文脈から、非-遠足の文脈に置き換えてみるのである。
遠足 / 非-遠足(=日常)
|| ||
・・・・・・・・ / 遠足の思い出(特に思い出される物事)
例えば、なんでも良いのだが、「お弁当」にしてみよう。遠足といえばお弁当である。
お弁当のコロッケを落とした、というありがちな思い出であるが、この遠足ならではの(?)コロッケが落ちるという特に思い出される物事エピソードを、「いつもの学校だったら」と、ありふれた非-遠足の日常の方に置き換えてみるのである。
こうして”遠足もいいけれど、いつも通りの日常もいいよね”と言った話でオチまでつく。
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以上、このように意味分節理論は、作文の構成を考える上で、非常に役に立つのである。
もちろん、学校の作文のような場では、あまり深層のランガージュ、意味分節システムが過剰に躍動する様を前景化することは望まれないのかもしれない。そこでは日常の意味分節”体系”の中で、淡々と一義性を再生産するようなシンボルの変換を行うことが評価されるのかもしれない。
表層を薄くする
ところが、これが文学となると、話は逆で、表層の分節体系を限りなく「薄く」し、その向こうに深層の分節システムが躍動する様を透視させるような言葉の組み方が必要になる。しかもそれは文学を「書く」場合に限らず「読む」時にも非常に役にたつのである。
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例えば、私の好きな、横光利一氏に『蠅』という作品があるが、その書き出しが大変に深層意味論的である。
まず最初の「真夏の」である。
「真夏」は、端的に「真夏以外」と分節されると言えよう。
真夏 / (真夏以外)
ここで真夏という言葉は、さまざまな言葉への言い換えの可能性を一挙に手繰り寄せる。すなわち、
暑さ / ( )
日差し / 暗さ
光 / 闇
汗 / ( )
生き物の匂い / ( )
個的生物 / (死!)
個的生 / 華厳的生命
と言った具合である。
真夏と真夏以外の二項対立は、生命と死、あるいは個体としての生と華厳法界的な生命それ自体との二項対立までもを、一挙に手繰り寄せることができる、と思う。
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ここでさらに「宿場は」である。
宿場と非宿場との二項対立関係もまた、さまざまな二項対立関係を手繰り寄せてくる。
宿場 / 非-宿場
移動 / 停止
動 / 静
通過 / 終点
中空 / 充満
線 / 点
漂泊 / 定住
開放 / 閉鎖
中空な、線、それ自体としては自性を持たず、結びつけるという働きを動かし続けることによってのみ存在する存在。そういうものが「宿場」であるとすれば、それはまさに個的生命体の存在そのものではないか。
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ここで「真夏ーのー宿場」とつなぐことは、「華厳的に縁起する生命それ自体」と「個的生物の死すべき生」を分けつつも結びつけることになる。
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そしてすかさず「空虚であった」とくる。
空虚と対立するのは非-空虚、素朴には充満、充実、有の極み、と言ったところになるだろう。
空虚 / 非-空虚
空虚 / 充満
無? / 有?
ところが、ここでは「空虚」は「真夏の宿場」と結ばれるのである。
「真夏の宿場」というのが「華厳的に縁起する生命それ自体」と「個的生物の死すべき生」が不可分一体であることならば、空虚もまた同じく「華厳的に縁起する生命それ自体」でありながら、同時に「個的生物の死すべき生」でもある、という関係になる。
この場合の空虚は、個体における生と死の区別を発生させる、生命それ自体、と等しいことになる。
この空虚は、単に空っぽということではなく、非-有でもない。この空虚は「何も生まない空」ではなく、「生産性を持った空」であり、すなわち、理事無礙法界における「理」としての「空」である。
適当なことを書いていると思われるかもしれないが、実際に『蠅』を読んでみると、まさにこのような個的生命が束の間通り過ぎる場としてのこの世、といったことを強く意識させる話になっている。ぜひ読んでいただきたい。
そしてこの空、生産的な「理」としての空こそが、表層の意味分節体系(ラング)の下で、その深層で動いているランガージュ=意味分節システムの躍動そのものなのである。
このわずか数文字の文に並ぶ言葉(シンボル)は、私たちの表層の日常の意識に、その直下に蠢く空を、理を、ランガージュを、意味分節システムの動態を、透かしてみせるのである。
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あるいはこういう考えはどうだろうか。
言葉は、深層だけでも、表層だけでも、成り立たない。
深層と表層が表裏一体不可分一体となり、動きつつ止まり、開かれつつ閉じる時にこそ、言葉は言葉であり、複数の人間の間で持って「意味する」ということを、コミュニケーションということを可能にする。
文学を読むにせよ、作文を書くにせよ、何か一言ツイートするにせよ、不意に脳裏に言葉が浮かぶにせよ、私たちは言葉という意味分節の全的生命を、瞬間瞬間一挙に躍動させているのである。
こういうことを大真面目に考えるとき、やはり深層意味論は役に立つ、と言わざるを得ないのである。
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