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意味の意味とは?−「意味というもの」と「意味すること」

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「意味」とは何か

随分と子供の頃から、たぶん小学生くらいの頃、おそらく「意味」という言葉を使えるようになった当初からだと思うのだけれども、この意味という言葉にどうにも収まりが悪い感じをもっていた。

それはこの言葉が、「意味の意味とは?」という問いを発することを可能にしてしまうからである。

しかもこの問いに、まともに答えてくれる大人は、当時子供の私の周囲にはひとりも居なかった。

意味の意味とは…

まだ子供だったというのに、この意味という言葉にこだわったのには理由がある。

読めるけれど聴けない

今から思うと小学生の頃の私は「ぼんやり」した子供で、「先生がしゃべっていること」があまり頭に入ってこなかった。

音声として、空気の振動として、耳には届いているのであるけれども、なにを言っているのかその「意味」がよくつかめない

しかし、教科書でも本でも、文字で書かれたものであれば、それを「読み」さえすれば、大概のことはスラスラと理解できたし、覚えることもできた

読めるけれども聴けない。いわゆるディスクレシアの「逆」だったのである。

長じて脳の情報処理に関する論文などを読み、今になって考えれば、これはおそらく脳機能の発達の過程で、どこかとどこかの繋がり方の強度が、平均的な人と違っていたということなのだろう。思い起こせば小学生の頃、右側の前頭葉の慢性的な偏頭痛に悩まされても居た。なにか関係があるかもしれない。興味深いので機会があればfMRIでも撮ってみたいものである。無償で実験台になるので興味のある研究者の方はご連絡いただきたい

ちなみに、大人になった今でも、人が喋っていることが右から左に抜けているような気がするが、自分が困ることはあまりないので気にしていない。何より、奇妙なことに拘り博士号を取得してみたり仕事も何をやっているのかよくわからない奇人だと思われるので、話を聞いていないくらいではもう驚かれないようになっている。

さて、読めるけれど聴けない。

子供の時分に、これで何が困るかと言うと「話を聞いていない」と怒られることである。

授業中は取り残されないよう、先生の話はほとんど聞かずに、ひたすら該当箇所の教科書を読んでいたものである。当然、不意に何か質問されても答えられない。なにを聞かれているのか分からないのである。

周囲から見て分かりにくいのは、教科書の中身は読めば分かるし、また記憶力もすこぶる良かったため、ペーパーテストでは無難に平均以上の得点を上げることができることだろう。

当時はまだ学習障害という概念は一般的では無かったと思うが、さすがにいつもテストが0点の友達は特別に配慮を受けていた。問題が目に見えてわかりやすいからである。しかしテストでなんとかなってしまう私の方は何か大きな困難を抱えているというようには見られなかった。むしろ「単純に、やる気がなくてわざと話を聞いていない」と思われたのである。

私は「態度の悪い生徒」という扱いで怒られ、何度注意されても態度が直らない(直せない)ので、そのまま放置されるという道をたどった。何も知らない教師からすると、なんだか馬鹿にされているように感じたことだろう。

どうにも申し訳ない話である。と一応書いておくが、あまり申し訳ないとは思っていない。

辞書で「意味の意味」を調べてみる

さて、読めば分かるといっても、小学生のことである。初めて出会う言葉、未知の言葉はいくらでもやってくる。知らない言葉と遭遇したときにどうするか。生真面目に「辞書」を引いていた。

始めて辞書を使った「意味調べ」のやり方を教わったとき、こんな便利なテクニックがあったのか!と感動した記憶がある。辞書を手に「これを全部読んで覚えてやろう」と不穏当なことを思ったものである。

実際、クラスの他の構成員と元気に遊ぶこともせず、図書室に通い詰めては辞典の類を1ページ1ページ眺めていた記憶がある。

そんなある日、ふと気になって「意味の意味」を調べてみるという余計なことをやってしまったのである。

しかし、辞書で「意味」の意味を調べても、どうも釈然としない。小学生の国語辞典には、確か「意味とは言葉の内容である」的なことが書いてあったように思うのだが、それでは「意味とは意味である」と同語反復しているようなものではないか。

「意味とは言葉の置き換えである」と知る

流石にいつもこのことばかり考えていたわけではないが、意味の意味は、事あるごとに引っかかり続けてきた。

そしてすっかり大人になってから、意味の意味について、あまりにもあっさりすっきり「答え」に出会うことができた。答えを与えてくれたのはかの構造主義の祖とされる人類学者クロード・レヴィ=ストロース氏である。

『神話と意味』という本でレヴィ=ストロースは次のように書いている。

「意味する」とは、ある種の所与が別の言語に置き換えられる可能性を意味する、というのが、私たちにできる唯一の答えであると思われます。

『神話と意味』(1987=1996) 大橋保夫訳,みすず書房,p.15

「意味する」とは「置き換える」ということである。

ここでまず目から鱗が落ちたのは、意味は「もの」ではなく置き換えるという操作、あるいは動き、出来事、だということである。

意味ということが何らかの「もの」ではなく、「置き換える」という「操作」「手続き」「処理」といった類の動的な過程だとすれば、「意味とは何か?」という問い方に対して、その答えとして「それはコレでございますよ」と何かの個物(もの)を差し出してもらう事はできないという話である。

このレヴィ=ストロース氏の一言(一文)をきっかけに、後に意味分節理論、深層意味論の世界に入り込んでいくことになったわけである。

この辺りの話は下記の記事で書いていますので、ご興味あればどうぞ。


さて、この「意味」の話は、こちら↓↓の後編に続きます

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