一頁精読: 言語の二つの側面-安藤礼二著『折口信夫』p.488
安藤礼二氏の大著『折口信夫』。
前のnoteで「列島論」に触れたが、今回はその次、この大著の最後にある「詩語論」を読んでみたい。
「詩語論」では、折口信夫と西脇順三郎、そして井筒俊彦による詩的言語をめぐる思考が、異なりながらもひとつに結ばれていく。
ここでおもしろかったのは、こちらの488ページにある、井筒俊彦の折口信夫評である。
「どことなく妖気漂う」
「言い知れぬ魅惑と恐怖」
「危険だ」
「この魔法の輪の中に曳きずりこまれたら、もう二度と出られなくなってしまうぞ」
と、人から人に対する評価としてはこれ以上無いものかもしれない。
さて、その折口信夫から西脇順三郎、そして井筒俊彦に、『言語にとって美とはなにか』の吉本隆明まで、言語の思想に通底するのは「言語の二つの側面」をみることにある。
言語の二つの側面
言語には次の二つの側面がある。
まず、日常生活の中で何気なく使っているような、何か特定の対象を指示する「もの」としての側面。ラーメン屋で「冷やし中華」を頼んだのに、アツアツの「鍋焼きラーメン」が出てきたらダメ、という世界である。
次に、言葉で指示される対象そのものをゼロから作り出す「働き」の側面。
この二つを、吉本隆明は「指示表出性」と「自己表出性」に区別し、西脇順三郎は「知性的機能」と「感性的機能」に区別し、そして折口は「間接性」と「直接性」と呼んで区別した。
あるいは丸山圭三郎氏による「信号」と「象徴」の区別も、これに連ねることができるだろう。
井筒俊彦氏は言語の二つの側面を「デノテーション」と「コノテーション」に区別した。
ちなみに、井筒先生のデノテーションとコノテーションについてはこちらのnoteに書いたことがある。
言語にとっては、デノテーションよりもコノテーションの方が重要である。
日常の安定した意味の世界を支えているデノテーションよりも、曖昧で両義的なコノテーションの方が重要とは、どういうことか、と思われるかも知れないが、そもそもデノテーションとして運用できるしくみ自体が、最初はコノテーションから始まっている。
コノテーションこそが、意味を生成し、意味を変容させるメカニズムである。それはカオスをコスモスに置き換える。
そしてこのコノテーションの働きを、意識の表層(日常的なデノテーションに凝り固まった意識)に引っ張り上げて、凝り固まった意識を揺さぶり、ほぐし、意味の生成に立ち会い生きる余地を開こうとするのが、詩の言葉ということになる。
呪術としての言語
神の言葉を語る「預言者」は、詩の言葉で語ることで、世界の秩序と動作メカニズムを意識する新しいやり方を教える。
言語の意味の秩序(コスモス)=日常性の秩序を支える安定した意味の世界が「発生する瞬間」に、「神がかり」「憑依」「神が人間の口を借りて喋りだす」のである(p.499)。
言語の意味の始まりには「呪術」がある。
言語は呪術である。
なお安藤氏がここで触れている井筒俊彦氏の『言語と呪術』は、最近日本語訳が発行されている。
詩的言語論はさらに進む。
コノテーションの働きを生じる「呪術」思考は、「類似の法則」と「接触または感染の法則」で動いている。
安藤氏は次のように書く。
類似の法則というのは、ソシュールのパラディグマ軸での置き換え、即ち隠喩である。
接触または感染の法則というのは、ソシュールのシンタグマ軸での置き換え、即ち換喩である。
ひとつの語から、縦方向と横方向に、パラディグマとシンタグマ、二つの軸が永遠に伸びていく。その軸上にあるすべての語は、またそれぞれが、同じく二つの軸の交点である。ここに「異なるものの置き換え」によって結びつく巨大なWeb構造がうごめく。
ここで思い出すのは、中沢新一氏による「レンマ」の言語論である。そこで言語の二つの側面は「ロゴス的言語」と「レンマ的言語」ということになる。
ロゴス的言語が安定した意味の体系=区別と置き換えの関係を一定の枠に固めようとするものであるのに対し、レンマ的言語はWeb構造の置き換えを次から次へと進めていく。それがカオスからコスモスへ、コスモスからカオスへの、理事無碍から事事無碍への円環運動を意識の表層にも見えるようにするわけである。
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