詩的言語における意味の生成とはどういうことか? ―萩原朔太郎 「死なない蛸」を例に
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萩原朔太郎さんに「死なない蛸」という詩がある。
「死なない蛸」が収められた詩集『宿命』は、青空文庫にも公開されており、読むことができる。
ぜひ実際に読んでいただきたいところであるが、どういう話の構造になっているかというと、次のような具合である。
◎蛸が生きている、水槽の中で。
◎水槽に食べ物が供給されなくなる。蛸は食べるものがなくなる。
◎蛸は自分を食べてしまう。全部食べてしまう。
◎水槽は空っぽになり、誰にもなにも見えなくなったが、それでも蛸は「死ななかった」。
これだけでは何のことだかわからないと思うので(ネタバレにもなっていないだろうと思う)、そしてなにより、蛸が自分を食べていくプロセスの描き方は、日本語による詩の表現の一つの極致のようにも思えるので、ぜひ実際にお読みになることをおすすめする。
さて、私にできることといえば、この詩を読むこと、そして深層意味論の観点から分析することである。
意味するとは
意味するとは、まず(1)区別をすること、そして(2)区別される二つの事柄Aと非Aを対立関係置くこと(対置すること)、そして(3)対立関係を複数用意した上で、複数の対立関係同士を重ね合わせること、である。
そうすると、こういう具合の関係が出来上がる↓
A 対 非A
‖ ‖
X 対 非X
なんだと思われるかもしれないが、この2×2の関係が意味の最小単位である。
新しく意味を創造するとは
ここで詩的言語による意味の創造、「意味」を新しく創造することとは、この(1)区別すること、と(2)対立関係に置くこと、と、(3)対立関係を複数重ね合わせること、この三段階の操作あるいは「動き」を、日常的な意味のコードを超えた形で行うことである。
日常の自明な世界の秩序を支える言葉では、(1)区別すること、と(2)対立関係に置くこと、と、(3)対立関係を複数重ね合わせること、この意味の三段階の操作を、いつもおおむね同じようなパターンの範囲におさめるように細心の注意が払われる。
区別と対置と対立関係の重ね合わせを「常識とは違う=非常識」なやり方で行うと、社会的に非難され、排除される場合さえある。
積極的なパターンの反復と、反復されるパターンからの逸脱の排除という、この両輪で私たちの日常の世界は、意味の体系が予め完成しているかのような、安定したコードが存在するというような幻想あるいは、ユヴァル・ノア・ハラリ風にいえば「虚構」を刻んでいくのである。
ところが詩的言語では、そうした区別の区切り方を新しく試したり、対立関係の重ね方を日常のコードのやり方とは逆にしたり、あるいは日常のコードに比べれば全く意外な対立関係同士の組み合わせを試したり、という営みが許される。
といったところで、蛸の詩の意味構造を分析してみよう。
意味構造分析(1)対立関係を取り出す
まず全体の枠となる対立関係は下記のように考えられる。
「生と死」
「存在(あること)」と「非存在(ないこと)」
「見える」と「見えない」
日常の常識的な言葉の世界では、生=存在(あること)=見える、が一続きに重ねられ、他方で死=非存在(ないこと)=見えない、が一続きに重ねられる。
生きているものは見えるし、存在している。
死んでしまうと、見えなくなって、存在しなくなる。
まっとうである。
ところがこの蛸の詩では、この対立関係の重ね方がグニャリと曲がる。
蛸は見えなくなる。
蛸は自分を食べてしまったのである。食べられる細胞組織をすべて食べつくしたのであるから、もう見えるものはなにもない。
ところが、見えなくなったのに、蛸はまだ「生きている」という。見えない蛸は生き続け、水槽の中に存在し続けているという。
これが対立関係の重ね方のひっくり返しである。
日常の意味の秩序では
「生」 対 「死」
‖ ‖
「見える」 対 「見えない」
‖ ‖
「存在(あること)」 対 「非存在(ないこと)」
という対立関係の重ね方になっている。
これが蛸の詩では、
「死?」 対 「生」
‖ ‖
「見える」 対 「見えない」
‖ ‖
「存在(あること)」 対 「非存在(ないこと)」
という具合になっている。
「生」が、見えないことと、非存在と、重ねられるのである。
ではそうなると、日常では「生」と重ねられていた、見えること、存在することが、逆に「死」と重ねられることになるのだろうか?
そのような直接的な記述は、この蛸の詩にはない。
しかし、見えることと見えないこと、存在することと存在しないことに対する「生」のポジションをひっくり返したことで、潜在的な可能性として、「死」が、見えることと存在することの側に結び付けられうる空白の意味の場が開くのである。
見えていること、そして存在していること。私たちの日常の世界の「現実」を支える存在たちの根本であるこの二つの事柄が、実は「死」なのではないか、という戦慄がここから走り出す。
そして、なにより蛸である。
この詩における蛸は、両義的媒介項である。
両義的媒介項というのは即ち、対立する二つの項、例えば生と死といったふたつの事柄の両方と同時に置き換えられる項である。それは区別され対立関係に置かれた二項を、二項それぞれを保ったまま一つに結びつける。区別不可能に混ぜてしまうのではない。あくまでも対立する二つのままで、それでいて「でも同じひとつのこと」ということにしてしまう。これが両義的媒介項の力である。
詩の言葉は、こういう両義的媒介項に導かれる。
なにより「蛸」である。
萩原朔太郎さんがこれでもかと「リアル」に描写する、そのあまりの「リアルさ」がかえって幻想的になる蛸のグニャリとした動き。しかもその動きは、自分で自分を食べるという動きである。
グニャグニャしているという点で、すでに蛸は形の定まらない、つまり対立関係に置かれた二項のどちらにでも「変身」できるような、変容の可能性に満ちている。
そのグニャグニャした蛸が、自分で自分を、食べるのである。
「捕食すること」と「捕食されること」
この対立関係は、「生」と「死」の対立関係の実相である。
捕食する側は「生き」、そして捕食される側は「死ぬ」のである。
ところがこの蛸は「自分で自分を食べる」という動きをする。
この蛸は「捕食する側」であると同時に「捕食される側」である。
捕食する、捕食されるという区別された対立関係を、一点にグニャリと織り込んでしまうところで、この蛸は生でも死でもない、死にながらも生き、生きながらも死ぬという、どちらでもあってどちらでもないという、宙ぶらりんで両義的、曖昧な存在へと変身する。
存在は無である。
などと「論理」で言ってみるのは容易いが、そう安易に直結をしないのが、この蛸の詩の、詩的言語の真骨頂かもしれない。
タコが自分を食べ、そして水に溶けて一つになる過程を(ここに「蛸の身体」とその「外部環境=水槽の水」、つまり抽象的に言えば「内部」と「外部」の区別と対立の関係もつながってくる)これでもかとグニャリグニャリと軟体動物のようなゆっくりとした描写で描き出す。
対立関係にあるはずの二つのものが、一つに結合あるいは圧縮される、そのネジ曲がり軋む「境界」抵抗感を、蛸自身によって噛み砕かれる蛸自身の身体の弾力が象徴する。
食料供給の停止による空腹という生きながら死に向かわざるをえない消極的な動きと、食べることと食べられれることをひとつにつなぎ両義的媒介項を出現させる積極的な動きも対置される。いずれにしても、生きながら死に向かっているのである。
生と死は「ひとつの動き」に置き換えられる。
それはちょうど、ぐにゃぐにゃと動く蛸のような動きである。
おわり
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