ことばと意味をめぐる100年の謎解き
とある理工系の大学の研究会から「人間とAIの言語を介したコミュニケーションについて話題提供してほしい」というお話を頂いた。
「その分野については素人ですが…」と口を開いたところで、なぜか「それはよかった!ではお願いします」と、快諾したことになっていた。
・・・
というわけで、せっかくの機会なのでまとめてみました。
1)「言語」への問いが20世紀の思想に与えたインパクト
これは素朴実在論と呼ばれる考え方の一種ですが、この考え方には何かと無理があるのではないか、という疑問が積み重なりつつ、今から100年ほど前、20世紀が幕を開けたのです。
20世紀の100年間、素朴実在論に異を唱える思想が爆発的に広まって行くことになるのですが、その最初の拠り所となったのは、19世紀のフェルディナン・ド・ソシュールによる言語学でした。
これは素朴実在論を前提とした言語観ですが、そういった言語の見方を否定したのがソシュールの言語学です。
ソシュールの言語学のインパクトは次の2つのことにありました。
この言語観に立つと、人間とその周囲の世界との関係がぐるりとひっくり返ります。
人間と世界の関係について素朴実在論が描くイメージは、世界がまず整然と区別されてあり、人間はそれをそのまま受け取り、意識したり、言葉に置き換えたりする、というもの。つまり↓
世界 → 人間
(ラベルのようなコトバで写し取る)
という関係。
ソシュールはこれを逆転し、次のようにします。
人間 → 世界
(人間が区切りを入れる)
人間と世界の規定関係(どちらがどちらに先行するか)が逆になります。この人間と世界の関係についての考え方の逆転を、のちに言語学的転回(言語論的転回)と言います。
人が「区別をする」という操作を行うが故に、その後に区別された事物たちの世界が生産されるのです。区別する操作に先立って、予め世界が区別された事物に切り分けられているわけではありません。
人間の目に映る、整然と区別された事物たちは、あくまでも人間にとってそういうふうに見えているだけ、ということになるのです。
人間と世界の関係でいえば「人間の方」が区別の操作を通じて事物の世界を作り出す。
仮にそうだとして、次に問題になるのが、この「人間」がやっている区別する操作ということの正体。これが大問題になります。
2)ラングとランガージュ
まず、ソシュールの段階でこの区別する操作として注目されたのが、他でもない「言語」でした。
ソシュールは言語を、「ラング」と「ランガージュ」に分けて考えます。
ラングというのは辞書に印刷されているような、区別が設定完了済の静的な言葉の体系です。
一方、ランガージュというのは、人間が言葉を用いて「区別する」能力のことを指しています。
先にランガージュという働きが動くことで、後からラングという体系が構築できるようになるのです。
ランガージュの活動は、どういう区別が正しくて、どういう区別が正しくないか、といったルールを予め与えられてはいません。潜在的に、どのような区別を行ってもよいのがランガージュなのです。
ここでソシュールが捕らえられてしまった謎は、このランガージュの働きを動かす「主語=主体」は誰なのか、という問題です。
ランガージュを動かすのは、私たち一人ひとりの、自由で独立した明晰な意識なのでしょうか。確かに、私たちは意識的に新しい言葉を創造し、共有し、今までにない区別のやり方で世界を再発見することもできます。しかし、ランガージュは単に明晰な意識が自在に動かせる道具に過ぎないものなのでしょうか。
3)無意識こそがランガージュ
次に強烈なインパクトを与えたアイディアは、区別をする操作は「無意識」で行われているというものです。「意識」ではなく「無意識」こそがランガージュを動かすという考えです。
無意識というのは20世紀の前半にはフロイトやユングが探求したもので、煎じ詰めると、人間の意識の「下」には、意識されない「深層」が隠れつつ蠢いており、この深層から湧き上がる衝動や情動が「表層」の意識の内容を強く左右する、という考えです。
この「無意識」の動き方をどうモデル化するかを巡って、フロイトやユングは試行錯誤したのです。
そして20世紀なかば、ジャック・ラカンという人が「無意識はひとつのランガージュとして構造化されている」という考えを提示します。
無意識の層から意識の表層の一番下へ、次から次へとイメージが浮かび上がってきます。私たちが「夢」をみているときに遭遇するイメージたちがまさにそれです。無意識は静止した世界ではなく、激烈に動いており、いくつもの意味不明なイメージたちを意識の表層へ送り込んできます。
ここで、あるイメージを他のイメージとは異なるものとして、互いに区別する働きが、すでに無意識と意識の隙間で働いている、と考えるのです。
無意識から立ち上る区別は、表層の明晰な意識からすると理解に苦しむ錯綜状態を呈しています。表層レベルでは互いに対立し相反するはずのもの同士(例えば人間と動物、男性性と女性性)が、深層ではひとつに混じり合っていたり、くるくると入れ替わったり、同時にどちらでもあったりします。
無意識のランガージュでは「区別すること」と並んで、「同じにすること」というもうひとつの作用が働いています。
ランガージュは「区別する」だけでなく、その区別された者同士を「異なるもの」と認めながらも、同時に何のためらいもなく「同じということにする」「置き換え可能にする」「翻訳可能にする」という短絡処理をしてしまうのです。
4)意味作用−「異なる、が、同じ」
区別すること、置き換えること。
この二つの作用は、私たちが「意味(意味する)」と呼んでいる現象の真髄です。
例えば「りんご🍎」の意味を考えましょう。
まず、りんごと、りんご以外を「区別する」ランガージュの動きがあります。この場合の「りんご」は素朴実在論的な何かのことではなく、「りんご」という「音」だと思ってください。
その上で「りんご」とは何か(「りんご」という言葉の意味はなにか?)と問われた場合、いろいろな答え方がありますが、例えば「赤くて丸いもので、植物の実で、甘酸っぱい味がするもの」という具合にその意味を説明できるでしょう。
この説明をする、という操作を行う時、私たちは無意識に、赤いと赤くない、丸いと丸くない、甘酸っぱいと甘酸っぱくない、といった区別を持ち出してきます。
そして「赤い」と「丸い」という、もともと何の関係もない二つの区別を、無理にショートさせることで「赤くて丸くて…」という意味を作り出します。さらにこういうショート処理を幾つ重ね合わせていくと、「りんごは赤くて丸くて甘酢いっぱい」という意味を展開できます。このショートはいつまでもどこまでもつないでいくことができます。
5)ショートさせてよいところと、だめなところを決める
区別して、置き換えること。それによって「異なる。が、同じ」という関係をつないでいくことが、意味するということの正体です。
ここで表層の意識、整然と区別された物事の体系を知る意識というのは、この「異なる。が、同じ」にする操作のやり方を、特定のパターンだけに限定したところに出来上がるものです。すなわち、何と何を「同じ」でショートしてよいか、その許されるパターンと許されないパターンを区別していくのです。ちょうど辞書に印刷された短絡は「許される」方で、それ以外は「許されない」方ということになります。
一方、思想の意識では、先程書いたように、「異なる。が、同じ」にする操作が自在に展開していきますので、表層の意識が知る整然とした区別からすれば意味不明な短絡が続出します。極めつけは例えば、
と言った具合に、互いに区別され対立関係にあるはずの事柄同士さえ、ショートしてしまうのです。
しかし、こうした奇妙にショートされたコトバを前にして、私たちはなぜか「深い意味がありそうだ」と感じてしまうのです。それはこれが、ランガージュの深層の能力の創造的な活動に直接触れるものだからです。
AIに絡めると
さて、以上が20世紀を通じて問われてきた、ことばと意味の関係ですが、ここに話題のAIをショートさせて見ましょう。
今の所のAIは「教師あり学習」という概念にあるように、「正解=正しい意味」を予め設定できる場合を想定して使われているようです。
例えば「猫の顔」と「猫以外の顔」を区別するAIというのが少し前に(随分前に?)ありましたが、あそこでは何が猫の顔で、何が猫の顔ではないか、その区別は厳然と存在していることが前提になっていました。
そこには「ハツカネズミは夢見る猫である」というような、深層意識のランガージュによる創発的な意味生成は想定されていません。
深層のランガージュから創発する区別と置き換えのパターンとしての「意味」。この点で言葉は「不完全」であるということをその最大の強みとしています。
それも永遠に「不完全」であらざるを得ない、ということです。
言語に「完成」ということは無いし、ましては「予め与えられた正解」もないのです。
「完成」というのは、予めどこかに設計図のようなものが置かれていることを前提として、コツコツと作り上げてきたものが、ようやくその設計図と100%合致したときに、初めて「完成だ!」といえるものです。
ところが言語の場合、この予め置かれた設計図というものは無いのです。
もちろん、設計図が無いからといって、カオス状態を呈するということではありません。
ランガージュとしての言語は「区別すること」そして互いに異なるものとして区別された項同士を「同じ」とみなして置き換え可能な関係に置くこと、この二つのアルゴリズムが動き続けることであり、その作動の痕跡としてラングの体系を残していくのです。これはつまり言語が進化をし続けるシステムであるということです。
もしAIが人間の言葉を本気で扱うというのであれば、この進化のプロセスに絡んでいかないといけません。
といっても、アルゴリズムはもうわかっているわけで、あとはAIを設計する人間の側が、素朴実在論的な「所与の正解」の幻想に惑わされることなく、純粋に進化し変化し続けるシステムの生息地を保護することができればよいのかもしれません。
おわりに 20世紀式量産型人間
平均でも数十年か、長くても百年ほどで死んでしまう私たちひとりひとりの人間は、その短い、あるいは長い生を、このランガージュのアルゴリズムと折り合いをつけながら行きていかなければなりません。
実際、これで苦労するのです。そんな時、AIか何かでもって「ランガージュと折り合いをつける能力」を強化することができれば、人類史に新しい局面がもたらされるかもしれません。
もちろん、それが破滅的な結果をもたらさないかどうか、確かなことは言えません。思えばほんの数十年前、20世紀の人類は「マスメディア」という強烈なランガージュ能力の同期化技術を使ってイデオロギー的に拡張された人間を大量に作り出し、大量殺人を実行させ、それを心理的に許容できるものにしてしまった経歴があります。
あるいは、そうして作られた20世紀式量産型の人間は、対立関係をひっくり返したり、意味を複数化する、というランガージュ本来の創発的な側面を抑圧することで成り立っていたわけですが、ランガージュ本来の意味生成の力を拡張し意識の表層に引っ張り出すようなサポートを、もしAIに支援されたメディア技術を使って行えるのなら、意識の深層と表層の循環を回復し、表層意識の妄執を解毒する効果も得られるかもしれません?
このあたりの話は『サピエンス全史』で有名なユヴァル・ノア・ハラリ氏が新著『21 Lessons』で問われていることへの、ひとつの回答の試みになるかもしれません。
以上です。
ちなみに、冒頭の画像は、四歳になった長男が撮影した「シルバニアファミリーのうさぎとねこが並んでいる写真」である。焦点がスゴイことになっているが、まさに無意識のランガージュを象徴するような絵だったので、借り受けた。