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「自分は素朴実在論者だった」と気づいたきっかけと、その後

人間というものは、物心がついた時点では、素朴実在論者なのだろうか。

もちろん、3歳くらいの子供が「私は素朴実在論者である」など考えることは極めて稀だろうから、あくまでも他の人が外から子供の言っていることを観察した場合に素朴実在論者であるかのように見えるかどうか、という話である。

そもそも「○○論者」というのは全て自称である。自分で、自分のことを、「自分は○○論者だから」と言えば、それでもうその人は○○論者なのである。

もちろん「公式○○論者資格認定試験協会」のような組織があったとして、○○論者認定試験に合格した者に対して一級○○論者、二級○○論者、ジュニア○○論者などの資格を付与しているというのであれば、自称をさも自称ではなく、他者によって認められた、誰にとっても同じ動かし難い事実であるかのように装わせることはできるかもしれない。

そして何より、正体は自称であり意味づけであり解釈であり、つまりいつでも限りなく他の意味づけの可能性に開かれて動いている事柄を、誰にとっても同じ動かし難い=解釈を拒絶する事実として閉じて固めてしまうことが「素朴実在論」と呼ばれる態度である。

素朴実在論者云々ということは、自称することというよりも、他者からそのように呼ばれる事柄である。そして素朴実在論は、大抵の場合、素朴実在論を批判する言説の中に登場するのである。

つまり素朴実在論は非-素朴実在論との対比の中で、非-素朴実在論ではないもの、非-非-素朴実在論として浮かび上がってくる話なのである。

* *

「人間は、物心がついた時点で素朴実在論者なのだろうか」などという疑問なり考えなりが浮かんでいるということは、素朴実在論と非-素朴実在論との対比、物心ついたばかりの人間と、そうでない人間との対比が重ね合わせになっているということでもある。

素朴実在論 / 非-素朴実在論
物心ついたばかりの人間 / そうでない人間

ちなみに今の私は、子供だった頃の自分のことを素朴実在論者だったと思っている。例えば、物心ついたときから、こんな具合に考えて生きていた。

眼の前のテーブル、電灯、Macbookとか。ものそのもの、ものそのものたちの合計としての世界そのものが、私とは無関係にはじめから実在している。

そしてさらに次のようにも思っていた。

私はそれらのものたちに名前が書き込まれたラベルを貼り付けている。

ラベルに書き込む名前は変えてもいいし、ラベルはどう張り替えてもいい。

どの物にどのラベルを貼るかは社会の慣習でしかない

ラベルをどう張り替えようともモノそのものの素朴な実在とは関係がない。言葉とは無関係に、素朴に実在するものたちはそれ自体ではじめから存在しているのだから。

という具合である。こういう考え方はさまざまな哲学者によって「素朴実在論」と呼ばれ、批判されてきたものである。

例えば、フェルディナン・ド・ソシュールにせよ、マルクスにせよ、クロード・レヴィ=ストロースにせよ、その後のポスト構造主義の議論なども、素朴実在論を問いに付すところから知の深層への旅を始める。

これら20世紀の「言語学的転回」と総称される思考では、次のような図式が問いに付されることになった。即ち、名札ラベルとしての言葉と、名札を貼られる前の素朴に実在する無名のものたちが、あらかじめそれぞれ別々に存在しており、この二つが人間の精神において一つに結びつけられるのだ、という考え方が疑いを持って眺められるようになったわけである。そしてこの疑わしい考え方が、その名も「素朴実在論」と呼ばれたのである。

では、この素朴実在論を批判する非-素朴実在論の立場、言語学的転回以降の思想では、モノと名前の関係をどのように考えるのかと言えば、次のように考えるのである。

即ち、世界に並んでいる(ように見える)あれこれのものたちは、人間と無関係にそれ自体として実在しているものではなく、あくまでも人間が用いることのできるシンボル体系(特に言語)の中で「他ではないそれとして」分節された事柄である、と。

とはいえ、素朴に世界の実在性を信じて疑わない状態で、いきなりこんなことを言われても、なんだかよくわからないという感想になるだろう。

文献を読んで「ああ、そういうことだったのか」と、それまでモヤモヤしていたものがスッキリと晴れる。そういう「わかる」という体験ができるためには、前提として「世界の実在性というのがどうも疑わしい」という感覚が必要であるし、この感覚をそれまでの手持ちの言葉ではどうにも言語化できないというもどかしさも必要である。

自分自身のことを思い出してみると、「この世界はどうも奇妙だな」と思い始めったのは、子供の私の目に、世界が苛烈な言い争いに満ちている様子が見え始めた頃だ。

ある事態をどういう言葉で呼び、称賛するのか、批難するのか正解がひとつに決まらないところで、互いに相手を黙らせようとする怒鳴り声が響いている、という具合に見えたものだ。

ここで言葉が(素朴に実在するはずの)世界の表面にぴったり、きれいに、張り付いていないのではないか、と思ったものである。

子供なりに、その理由を考えた記憶がある。

第一に想定された理由は「言葉の性能が悪いのではないか」ということである。

もっと完成度の高い、しっかりとした、意味の揺らぎの少ない言葉を世界中の人が喋るようになれば、混乱はなくなり、世界の表面にピッタリ被さる思考ができるようになるのではないか、と。

とはいえ、この考えはすぐに消えてしまった。なぜなら、世界と言葉がずれる二つ目の理由を思いついてしまったからである。

その理由とは即ち、世界の表面はそもそも流動的で、ゆるく、動いており、そこにぶつけられる言葉が変われば、世界の表面の形も、衝撃に応じてぐにゃぐにゃと形を変えていくのではないか、という直観である。つまり世界がそもそも不定形で動いており、そこに静止したラベルは似合わない、ということである。

子供の当時、この感覚は、うまく言葉にはできない、手持ちの言葉では「なんとも言えない」「言葉にならないなにか」の気配のようなものであった。

慣れ親しんでいたはずの世界が、なんとなく自分から剥がれ落ちていく、「気持ちの悪いもの」に感じられるという。そんな時、たまたま手にとった20世紀の思想の書物は、その言葉にならない気配に、言葉を与えてくれたのである。

実在する世界が正解と不正解をジャッジしてくれる。はずなのに…

出来合いの世界の秩序があり、言葉はそれに貼り付けられるもうひとつの秩序である、という考え方。これが素朴実在論のはじまりである。

もし世界が、予めかっちりと実在するのであれば、この世界を基準にして、言葉の方を「正解」と「不正解」に区別することができるはずである。

出来合いの世界の秩序を、より直接的に、ストレートに、「そのまま」表すことができるような言葉こそが、「正解」に近い言葉であって欲しい。言葉の理想は世界そのものと完全に一致することであるべきである。もし世界を捻じ曲げて表してしまい、世界の本来の出来合いの姿を正確に写し取ることができないなら、それは「不正解」の言葉である。などなどという発想に至るのである。世界そのものと完全一致する、どこの誰にとっても、いつでも「同じ」になるべき「正しい」言葉があるはずだ、と。

ところが、出来合いの世界というものが実は存在しないとなると、言葉を正解と不正解に区別する基準が「ない」ことになる。誰にとっても当たり前の、文句のつけようがない基準、「文句を言う方がおかしい」などと開き直ることを許す基準が「ない」ということ。

こうなると、「実在」の重さの威を借りた威勢のいい断定的な物言いは、なかなかできなくなる。それまでの元気な自分がすっかり居なくなり、言葉を奪われたように感じる。

正解の基準がないところで

20世紀の言語についての思想は、「出来合いの誰にとっても同じ世界と、それを正確にトレースする、唯一の正しい言葉があるはず」という淡い期待を拒否する。

まず誰にとっても同じ出来合いの世界というものはない。

また、それを正確にトレースできる唯一の正しい言葉というものもない。

世界はひとりひとり個別の、同じだが違う無数の人間一人一人にとっての「意味」として現象する。

意味は、何かをそれではない他の何かから区別することから始まる。この互いに区別され対立関係にあるふたつのなにかの上に、別の対立関係がいくつかの形態で結びついていく。「実在」と「非実在」の区別を、「正解」と「不正解」の区別に重ねるというやり方が、まさにこれであった

さらに、コミュニケーション・メディアの理論を紐解いてみれば、「いつでもどこでも誰にとっても同じ意味」というのは、意味を生む区別の重ね方がメディア技術のリズムに打ち鳴らされて、多数の人々の間でうまい具合に同期してしまったところに生じる、束の間のモノであるということに話になっているではないか。それは端的に「近代」を可能にした文字の大量複製技術、印刷技術である。

多くの人々が同じような状況を同じような言葉で区切りだし、またイレギュラーな区切り方をする人の言葉を世界の単一性という想定を根拠に、「その言い方は間違っている」と断じてしまえること。そこで意味が同期する。

それは太古からの呪術の儀礼とまったく同じである。

信念の体系の中身が違うだけで、それを作り出すメカニズムの動作原理は変わっていない。

自分がどこかの誰かの言葉に憑依され、それを通して世界を、そして自分自身を観ていたということ。そしてまた別の誰かの言葉が、そのことに気づきを与えてくれもしたのである。

言葉とは世界を呪文で縛る呪術の儀礼であるという話は冗談ではなく、言語の意味の根底で動くメカニズムとして、重大な問題である。例えば、井筒俊彦氏の『言語と呪術』などはこのあたりの事情を知る手がかりとなる。

あるいは安藤礼二氏の著作も言語と思考の導きとなる。

素朴実在論の話は、下記の記事に続きます。


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