美術史第90章『飛鳥・奈良の美術-日本美術4-』
6世紀末期、推古天皇が天皇に即位し聖徳太子が摂政に就任し、飛鳥地方の藤原京に遷都が行われた頃から歴史区分で言う「飛鳥時代」が開始、この時代にも前回に詳しく解説した古墳の造営は続いていくこととなった。
また、飛鳥時代は古墳時代後期に中国から百済を通って伝来したインド由来の宗教である仏教が、仏教を国家に取り入れる促進派の蘇我氏が仏教導入促進の反対派の物部氏を滅ぼした「丁未の乱」によって、急速に日本で普及していった時代でもあり、また、推古天皇や聖徳太子は勝利した馬子によって立てられた。
飛鳥時代の初期には日本で最初の本格的な仏教寺院である「飛鳥寺」の建設が曽我氏により行われ、当時、日本の政治を取り仕切った聖徳太子もとい厩戸皇子もかなり仏教についての知識を持っており、遣隋使を派遣するなどして中国との正式な国交を取り付け、そこから「冠位十二階」や「十七条憲法」などの考案に関わった。
また、聖徳太子は「四天王寺」や「法隆寺」を建設してこれらは後に隆盛する日本の仏教美術の基礎を築くこととなり、現在では日本の仏教で崇拝される存在となっている。
また、「法隆寺」という寺は本堂と五重塔がある西伽藍と夢殿と呼ばれる堂を中心とした東伽藍に分けられいた西伽藍側の方が現存する最古の木造建築であるとして世界的にも非常に著名な建造物となっている。
その後、聖徳太子や推古天皇が死去し蘇我氏が権力を握っていた7世紀半ば、中大兄皇子、大海人皇子、藤原鎌足らがクーデター「乙巳の変」で政権を掌握して元号の制定や様々な機関の設置、法整備を進める「大化の改新」を行った。
中大兄皇子が権力を握ると「白村江の戦い」の敗北後には防衛が強化され「近江大津宮」に遷都、全国で戸籍を整備、その死後には大海人皇子が大友皇子を破って天皇に就任、新たに「藤原京」を建設し、戸籍の本格整備や土地の整理などを更に進めていき、中央集権化が一気に確立されていった。
ちなみに、大化の改新以降の文化は「白鳳文化」と言い、それ以前は「飛鳥文化」といい、飛鳥文化の美術としては先述した法隆寺や四天王寺などや「善光寺」などの寺院の他、『飛鳥寺釈迦如来像(飛鳥大仏)』や『法隆寺金堂釈迦三尊像』などの鞍作止利によって作られた作品も有名で、杏仁形の眼、仰月形の鋭い唇、アルカイック・スマイル、左右対称の幾何学衣文、正面的な造形を特徴とするとされる。
他にも多くの彫刻作品があり、聖徳太子の自筆とされる『三経義疏』、『天寿国繡帳』という染色作品、当時、首都だった飛鳥にある『飛鳥の石造物』と呼ばれる多くの石で作られた遺物などもある。
白鳳文化の美術では多くの建築が現存しないものの、キトラ古墳や高松塚古墳の絵画などがあり、彫刻でも法隆寺の阿弥陀三尊像、薬師寺の薬師三尊像、興福寺の仏頭、蟹満寺の釈迦如来坐像など多くの作品が作られた。
8世紀初頭、元明天皇が藤原京から「平城京」、現在の奈良への遷都を行い、そこが首都として安定、そこで初めての通貨「和同開珎」の普及や、『古事記』、『万葉集』、『日本書紀』の編纂、戸籍整備、租庸調による軍役、遣唐使の派遣を通した唐王朝の文物の導入、三世一身法や墾田永年私財法による税収のための農地拡大などが行われ、その一方で北方の蝦夷との戦争も行った。
また、かつて飛鳥に存在した「元興寺」、「大安寺」、「薬師寺」、「興福寺」などが奈良に移転し、奈良時代の日本の政府は仏教を厚く保護し寺院の造営、仏像の製作、経典の写しなどは国家事業として盛んに行われ、中でも8世紀中頃の聖武天皇は「鎮護国家」つまり仏教は国家を安定させるという思想の元で「国分寺」と「国分尼寺」という地域の中心地となる寺院の建設、更にその総本山である「東大寺」、その他、「西大寺」、「唐招提寺」、「山田寺」などが奈良に新しく建立された。
また、聖武天皇は著名な『東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)』を東大寺に作り、この頃から飛鳥時代から続いていた「白鳳文化」が終わり「天平文化」が開始、天平文化は貴族による仏教文化であり、中国や朝鮮半島諸国などの影響を強く受けた国際色のある様式であったとされる。
天平文化の代表的な作品としては奈良の大仏の他にも後の平安時代に栄える絵巻物の原型とされる「絵因果経」や東大寺にある聖武天皇と光明皇后にゆかりのある品を納めた校倉造の「正倉院」に収められた多くの宝物がある。
正倉院の宝物の多くは異国風に作られた国産の美術作品だが、唐王朝や東トルキスタン、ペルシアなどシルクロードを通ってやってきた品々も存在し、絵画、書籍、漆工品、木工芸、金属工芸、刀剣、陶器、ガラス製品、楽器、仮面など古代の工芸美術を集めた文化財の一大宝庫となっている。
天平文化の有名な作品として建築では三月堂や、古代からの「校倉造」で作られた正倉院宝庫、法隆寺東院夢堂、栄山寺八角堂、薬師寺東塔、唐招提寺金堂など、彫刻では興福寺八部衆立像や十大弟子像、三月堂にある多くの立像など多くの作品があり、金銅仏のほか、乾漆像や塑像も多く、金銀や石仏も制作され、塼仏、押出仏などの制作も盛んであった。