区別をしない(不二)?OSHOの『存在の詩』と一元論的な悟り
区別をしない(不二)?OSHOの『存在の詩』と一元論的な悟り
OSHO『存在の詩』には以下の記述がある。
区別をしないことを不二(ふに)といい、一元論的な悟りをいう。
アドヴァイタ=不二でしょ?ア=非、ドヴァイタ=二元だからさ。
そうだね。アドヴァイタ・ヴェーダンタ(不二一元論)に通ずるものがある。
アートマン=ブラフマンの一元論。
アドヴァイタ・ヴェーダンタ(不二一元論)では、すべては一元、すなわちアートマン(真我)=ブラフマン(宇宙の究極的原理)の一元であると考える。
梵我一如(ぼんがいちにょ)だよね?梵=ブラフマン、我=アートマン、一如=同一であること。「汝それなり」も「アートマン=ブラフマン」ってことだよね。
「汝それなり」の悟り体験という神秘的な体験をしたことは、以前にも述べたけれども。
そこには、認識主体も、認識対象もなかったんだよね?
シャンカラ『ウパデーシャ・サーハスリー』にも、以下の記述がある。
日常生活における区別の超越。
日常生活における区別は、無知・無明(アヴィディヤ)による幻影・幻想(マーヤー)である。
OSHOさんは、「それはあなたの解釈だ」と言っているね。
まあ、シャンカラさんの言うアヴィディヤは、真我(アートマン)と非真我(アナートマン)を混同する無知を意味するから、OSHOさんとは、ちょっと意味が違うけれどもね。
真の自己認識。
真の自己認識に到達するためには、全ての区別を取り除くことが必要である。
上の『ウパデーシャ・サーハスリー』で言えば、別異と不異、一と多、認識対象と認識主体、行動と行動主体、という区別は、ないと言っているね。
OSHOさんも、たぶん同意見だろうねー。
きれい・汚いもない。善悪もない。ただそれがそこにあるがままにあるだけ。
今までは、基本的に、アドヴァイタ・ヴェーダンタ(不二一元論)的に解してきたが、OSHOさんの見解に戻ろう。
きれい・汚いもない。善悪もない。ただそれがそこにあるがままにあるだけ。それが、OSHOさんのいいたいことなんだろうね。
ただそれがそこにあるがままにあるだけ、なのであって、それを、きれいだの汚いだの、善いだの悪いだの、とあなたの解釈を持ち込むなってことだよね。
言われてみれば、当たり前のことだけど、どうしても区別してしまうよね。
やっぱり、意識して区別しないクセをつけないといけないよね。
不二一元の悟り・真我実現の悟り、をしたんだったら、自然にできるんじゃないの?(笑)
やっぱり、ヴァーサナー(人の顕在的傾向)が真我への気づきを邪魔してるんだろうね。
真我に気づき続けるとヴァーサナ―は燃やし尽くされるわけじゃん。ラマナ・マハルシさん的に言えば・・・。
真我に気づき続けるしかないな。今世で無理なら来世までかかっても、やってやる!
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OSHOさんの本では、ベストバイだと思う。
分厚くて高いけれども、ベストセラー。内容がいいんだろうね。絶版になる前に勝ったほうがお得。
⇧永遠の聖典。20世紀最大の覚者、ラマナ・マハルシとの対話全3巻。
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