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ラマナ・マハルシの教え!?首にかけているネックレスを探した話と十番目の男の物語から学ぶ、真我再発見の道とは?

ラマナ・マハルシの教え!?首にかけているネックレスを探した話と十番目の男の物語から学ぶ、真我再発見の道とは?

『ラマナ・マハルシとの対話第3巻』に次の記述があるので引用する。

真我は常に実現されています。実現はただ覆い隠されているだけなのです。その覆いが取り除かれれば、常に実現されている真我を再発見して、探求者は幸福になるでしょう。常にここにある実現が、新たな実現のように見えるのです。
 それでは、現在の無知を克服するためには何をすべきでしょうか? それでは真の知識を得ようと熱望し、真剣になりなさい。この真剣さが深まれば誤った知識は弱まり、最後には消え去るでしょう。

ムナガーラ・ヴェンカタラーマイア『ラマナ・マハルシとの対話第3巻』
対話490より

なんだ!?そんなことだけでいいのかー?!的な文章だね(笑)

つまり、真の知識を得ようと熱望し、真剣になればいいんだね(笑)

そうだね、真の知識を得ようと➀熱望し、➁真剣になればいい。

で、真剣になればなるほど、誤った知識は弱まって消え去っていくんだね。

首にかけているネックレスを探した話。

実際の、ラマナ・マハルシさんの語りのなかで、よく出てきたらしい話なんだけどさ。

なになに?!

首にかけているネックレスを探した話があるんだ。

どういうたとえ話??

あるところに、ネックレスをなくした女性がいた。どこを探しても見つからない。そこで、友人にそのことを話した。そしたら、「あなたの首にかかってるわよ」といわれた。なんと、既にネックレスをつけていたのだった。女性は、ネックレスを再発見して喜んだ。後に、別の友だちに「ネックレスは見つかった?」と聞かれて、「ええ、見つかったわ!」と、あたかも失ったものを再発見したように言った、というたとえ話なんだけどさ。

元から付けていたんだよね?何がいいたいの??

女性は既に身につけていたのに、無知によって、ネックレスが見えなくなっていて、再発見して喜んだわけじゃん。それをあたかも失ったものを再発見したかのように言ったと。同じように、ボクらは既に真我実現してるのに、無知が真我を覆い隠しているから、再発見したとき、あたかも真我を新たに発見したかのように思うって話さ。で、このたとえ話のあと、上の引用文がくるんだ。じっくりよみかえしてみてほしい。

・・・よみかえした。文章のスジがよくわかった!!

ソレはよかった。あと、さっき「ボクらは」と書いたけれども、真我を再発見して、本当に真我実現したあとは、行為主体という意識がなくなるから、もう「ボクら」というのはつかえないんだ。

でもさ、文章を書くうえで、使わざるを得ないときもあるわけじゃない??

それもそうだ。日常生活でも使うことあるわけだよね。でもそれはあくまでも便法であって、行為主体という認識自体はなくなっているはずなんだ。

あと、十番目の男の物語もあるよ。

あと、十番目の男の物語もあるよ。

あ、前に話していたよね。もう一回聞かせて!

あるところに、10人の男たちがいた。隣町で祭りをやるというので行くことになった。しかし、その町に行くには、大きな川を渡らなければならない。肩まで水に浸かりながら、やっとの思いで川を渡った。でも、渡ったあとで、人数を数えてみたら、9人しかいないではないか!?。みんな泣き出してしまった。そこを通りがかった賢者が「キミたちはなぜ泣いているのかね」とたずねて、理由を聞いて、数えてみたら、ちゃんと10人いるではないか?!。つまり、十番目の男の自分を無知で知らなくて数に入れなかったという話なんだけどさ。

これは、さっきの、首にかけているネックレスを探した話に似てるね。

同系統の話だからね。つまり、自分がいるのに、自分がいるということへの無知から、自分を考えずに数えてしまった。でも、賢者の正しい知識によって、自分がいることを再発見した。これは、正しい知識を得て自己を再発見するという話だ。このとき男たちは自分を新発見したように思うだろう。なので、真我が既に実現されているにもかかわらず、無知がそれを覆い隠していて、真の知識を得て、真我を再発見するんだけども、あたかも真我を新発見したかのように思うのだ、ということを意味している。キホン的にネックレスの話と同じだよね。

結局、これらのたとえ話は、有名な話なの?

首にかけているネックレスを探した話は、たぶん、マハルシさんのオリジナル。一方の、十番目の男の物語は、ヴェーダンタの教えでよくでてくる話なんだ。

最初に戻るけれども・・・。

最初に戻るけれども・・・。

真我を覆い隠している無知を取り除いて再発見するには・・・。

真の知識を得ようと➀熱望し、➁真剣になればいい。真剣になればなるほど、誤った知識は弱まって、消え去っていくんだ。

とにかく、➀熱望し、➁真剣になればいいんだね。

もっとシンプルにいえば、➁真剣に正しい知識を得ようとすればいい!それだけでいいんだ。

マハルシさんに、勇気もらったね!

とにかく、もっともっと、真剣になろうぜ!!

真剣に右胸のハートを感じようぜ!!

まず、読者のアナタがやるべきことは、真剣に右胸のハートを感じることだね。

真我があるといわれる、右胸のハートだよね。

まあ、マハルシさんは、『ラマナ・マハルシとの対話第3巻』で「右側や左側という考えは放っておきなさい。それらは身体に関するものです。ハートが真我なのです。」(対話503より)とは言っているけれども。

身体が自分だと思ってる人には、「右側のハート」のほうがわかりやすいから、あえてつかってるんでしょ?

そうだね。そして、心とは真我の投影であって、根本原因は「私」という想念であり、その源は、真我なる霊的なハートなんだ。源さえわかれば、「私」は消えるんだ。これだけでは、アナタもまだまだわからないだろうけれども、この話は、いずれもっと詳しくとりあげるつもりだよ。

真我実現したらどうなるか?

何度も話してるけれども、この記事が初めてのアナタに対して、コレをつたえとかないとね!(笑)

3つあるよね?

そうだね。真我実現したら、存在(サット)意識(チット)至福(アーナンダ)=サッチダーナンダの境地に至るんだ。非常に気持ちいいよ!最近、だんだん日常生活の中でも、感じるようになってきたんだ。

ポリドルフィンさんの本当の意味での真我実現も、近いのかもしれないね。

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